#02 「地域という主体」第1回 主体とは誰か

地域という主体 〜「まちまるごとオフィス東伊豆」から見えたもの〜
第1回 主体とは誰か
高校時代の同級生が、故郷・東伊豆町で地域の取り組みを続けています。彼女の活動は以前から知っていました。実際に現地を訪れ、場の空気を感じたこともあります。
最近、彼女のFacebook投稿で一つの記事を読む機会に恵まれました。
改めて記事として整理された内容を読みながら、私は一つの問いに立ち止まりました。
・地域活性化の主体とは、誰なのか
多くの地域で語られる言葉があります。
「自治体は何をしてくれるのか」。
「行政はもっと支援すべきだ」。
その言葉自体を否定するつもりはありません。しかし、そこには前提があります。自治体と住民は別の主体であり、前者が施策を打ち、後者が受け取るという構図です。
この構図は便利です。責任の所在が明確になるからです。しかし同時に、主体を分離します。地域とは行政機構のことではありません。そこに生きる人間の営みの総体です。
もし住民が常に「要求する側」に立ち、自治体が「応える側」に固定されるなら、地域はいつまでも外部依存の構造から抜け出せません。
企業の現場でも似た構図を見てきました。社員が「会社が何をしてくれるか」を問い、経営が「どう満たすか」に追われる。その状態では、組織は成熟しません。
東伊豆町の取り組みを眺めながら、私は別の可能性を感じました。
自治体と住民を分けるのではなく、一体的な主体として捉える発想です。
・行政は制度と資源を持つ
・住民は物語と意思を持つ
役割は違いますが、未来に対する責任は共有できます。主体とは肩書きではありません。自分の立ち位置を地域の時間軸に接続することです。
ここからが、私自身の葛藤です。
私は、彼女のように自らリーダーシップを取り、地域活性化を主導することは難しいと感じています。
なぜか。
私には、「本来の広報を当たり前にする」というビジョンがあります。それは容易な道ではありません。一生をかけても実現できるかどうか分からないほど、根が深く、構造的な課題です。
・企業の関係資本を成熟させること
・判断の履歴を残す文化をつくること
・主体として立つ組織を増やすこと
その営み自体が、すでに私の全時間を使うほどの難儀さを伴っています。
故郷に何か貢献できないか。
その思いは確かにあります。
ここ5、6年は、母の様子を見に月に3回ほど伊豆に帰っています。
同級生の飲食店にはできるだけ足を運びます。
それが、いまの私にできる具体的な行動です。
しかし、それを地域活性化と呼ぶには、あまりに小さい。
ある対話をきっかけに、私の中で30年という時間軸が立ち上がりました。
「本来の広報を当たり前にする」という言葉の奥にあったものが、ようやく自分の中で結晶した感覚です。それは新しい発見というより、もともと抱えていたものに輪郭が与えられた瞬間でした。
いま私は、その30年ビジョンという時間軸に生きています。その自覚があるからこそ、思うのです。今はやはり、私が地域活性化を主導するのは難しい。
私はまだ、故郷の主体として全面に立ってはいません。それは事実です。
おそらく、こう言われる未来も想像できます。
「評論家でいる方が安全なのではないか」。
「いつかやる、と言い続けるのではないか」。
その声は、外からだけでなく、自分の内側からも聞こえます。
それでも、いまはこの立ち位置を引き受けます。
地域を直接動かすことではなく、地域が主体として立ち上がるための構造を言語化すること。
それが、いまの私にできる貢献です。
この選択が正しいかどうかは、時間が判断するでしょう。少なくとも私は、30年という時間軸の中で問い続けます。
そしてもし、その時間のどこかで自分が立つべき場所が変わるなら、そのときは迷わずその場所に向き合うつもりです。
次回は、地域に眠る歴史と物語が、どのように感情を動かし、関係を生み出すのかを考えます。
静かに続けます。
