#11 「教育と資本主義のあいだ」第1回 学ぶことは、稼ぐことなのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
教育と資本主義のあいだ
第1回 学ぶことは、稼ぐことなのか 〜教育の話の奥で、社会の重心が見えてしまった〜
教育の話に触れていたはずなのに、
気づけば、その奥で社会が人に何を求めているのかを考えていた。
違和感は、いつも少し遅れて言葉になる。
◆現実に触れた違和感
教育に関する話題に触れるたび、
最近、少し息が詰まるような感覚がある。
学歴と年収には相関がある。
子どものころにどんな教育を受けたかが、
その後の進路や所得に影響する。
学力だけではなく、非認知能力も大事だと言われる。
やり抜く力、自制心、好奇心、協調性。
そうしたものが、将来の成果を左右するのだと。
それ自体は、たぶん間違っていない。
現実を見れば、そう言わざるを得ない場面は多いのだろう。
教育が、その後の人生と無関係であるはずもない。
だが、そうした話を聞くたびに、
私の中には小さな違和感が残る。
ある場では、学歴だけではなく、
スポーツ経験やリーダーシップ経験、非認知能力までもが、
将来の収入を左右する要素として語られていた。
別の場では、
「もっと稼がなきゃ」「成長しなきゃ」という感覚そのものが、
社会の構造が生むしんどさとして整理されていた。
どちらも、現実を言い当てているのだと思う。
むしろ、誠実に現実を見ようとしている語りなのだろう。
けれど、その二つを続けて受け取ったとき、
私はふと立ち止まってしまった。
学ぶことは、
いつからこれほど自然に、
「稼ぐこと」の言葉で語られるようになったのだろう。
◆少しずつずれていく重心
もちろん、誰も露骨にはそう言わない。
教育は大切だ。
可能性を広げる。
生きる力を育てる。
社会を支える基盤でもある。
そのことに異論はない。
ただ、教育をめぐる言葉の流れを静かに見ていると、
その奥に、別の重心があるように感じる。
よい学校に入ること。
将来に有利な力を身につけること。
社会で評価される人になること。
市場の中で不利にならないように備えること。
そうした言葉が重なっていくと、
教育は少しずつ、
人格を育てる営みというより、
競争に適応する準備として語られ始める。
非認知能力という言葉にも、
私はどこかで立ち止まる。
本来それは、
テストの点数ではすくい取れない人間の力を、
ようやく言葉にしようとする試みだったはずだ。
けれど、それが将来の成果や所得や生産性と結びつけられるとき、
その言葉は少し違う響きを持ち始める。
やり抜く力も、自己制御も、協働する力も、
人が人として生きるための土台である前に、
競争の中で有利になる力として数えられていく。
そのことに、
私はうまく名づけられない窮屈さを覚える。
◆教育の話の奥にあるもの
たぶん、教育の側だけを見ていても、
この違和感は見えてこないのだと思う。
それは教育の問題というより、
教育が置かれている地面の問題なのかもしれない。
私たちは、成長し続けることを求められる社会の中にいる。
止まらないこと。
遅れないこと。
価値を出し続けること。
数字で証明できること。
その圧力の中で、教育もまた、
知らず知らずのうちに同じ方向へ引かれていく。
学ぶことが、
生きることの準備である前に、
競争に遅れないための準備になっていく。
もしそうだとすれば、
教育をめぐる息苦しさは、
学校や家庭の問題だけではない。
私たちの社会そのものの呼吸の浅さが、
そこに滲み出ているのかもしれない。
私は、教育経済学を否定したいわけではない。
エビデンスの語りを退けたいわけでもない。
実際、それによって救われる議論もあるだろう。
ただ、教育を語る言葉が、
あまりに結果へ、成果へ、収入へと寄っていくとき、
その手前にあったはずのもの――
何のために学ぶのか。
人は何を育てる存在なのか。
そもそも社会は、人に何を求めているのか。
そうした問いが、静かに痩せていく気がする。
学ぶことは、稼ぐことなのか。
いまのところ、私は答えを持っていない。
けれど、この問いを曖昧なまま通り過ぎてはいけない、
そんな感覚だけは残っている。
教育の話に見えて、
これはたぶん、
私たちが人間を何として見ているのか、
社会を何のために設計しているのか、
その奥にある問いなのだと思う。
