中級講座 Ⅰ.理論・基礎知識 経営と広報 リスクマネジメントの基礎 〜損失発生のメカニズム〜
こんにちは、荒木洋二です。
今回の講座も前回同様、「経営と広報」の「1.リスクマネジメントの基礎」です。前回は「①リスクとは」を解説しました。今回は「②損失発生のメカニズム」を解説します。
②損失発生のメカニズム
事件・事故の発生には必ず根拠があります。一つの事象の根拠となるリスク源は数多く存在します。
損失発生のメカニズムがどうなっているのか。次のスライドのとおりです。
リスク源とは損失を生み出す環境だったり、要因だったり、原因だったりします。数多くのリスク源から一つの事象が起こります。これが損失発生の直接的な原因です。その事象がクライシス、つまり重大な事件・事故の発生へとつながります。「クライシス」の語源や意味については別の講座で説明します。
次に重大な事件・事故が起こることで、損失が発生するのです。損失とはすなわち致命的なダメージのことです。
リスク源があって、そこから損失の直接的原因となる一つの事象が現れ、それが重大な事件・事故の発生へとつながり、最終的には致命的なダメージを受ける、というのが損失発生のメカニズムです。
損失発生のメカニズムと同様のことを唱えている理論があります。「ブロークン・ウインドウズ理論」(Broken Windows Theory)といいます。「割れ窓理論」、「壊れ窓理論」とも呼ばれています。
環境犯罪学の理論で、犯罪学者のジョージ・ケリング氏が提唱したものです。どういう理論かというと、軽微な犯罪を徹底的に取り締まることで凶悪犯罪の抑止効果につながる、というものです。ある建物の窓を割れた状態で放置しておくと、割られる窓がどんどん増え、やがて建物全体が荒れます。さらにその建物にとどまらず、ついには街全体が荒廃していく、ということを説いています。
実際に犯罪抑止において成功例があります。1980年代、ニューヨーク市は米国有数の犯罪多発都市でした。30年近く前のことです。1994年にルドルフ・ジュリアーニ氏がニューヨークの市長に就任しました。検事出身のジュリアーニ市長がジョージ・ケリング氏の理論を応用し、治安対策をしたところ凶悪犯罪が減り、治安が改善しました。
もう一つ例を挙げます。2006年4月、岐阜県で「中津川女子中学生殺人事件」が起こりました。この事件は軽微なことを疎かにしたために、重大な殺人事件に発展した、という事例です。割れ窓理論を逆説的に証明したともいえます。
元パチンコ店の空き店舗が素行の芳しくない若者のたまり場になっていました。この空き店舗で女子中学生が殺害されました。警察は空き店舗周辺をパトロールしていましたが、犯罪の温床となるような環境があるとの認識が薄く、じっくり観察できていませんでした。警察も惰性で仕事をしていたかもしれません。
学校においては、加害者の男子高校生が女子高校生との間に1歳の子どもがいるなど、その素行が問題視されていました。ただ、その問題意識や情報が地域社会で共有できていませんでした。現状認識が共有できていなかったし、関係機関との連携が不十分でした。そんな状況でこの殺人事件が起こってしまったのです。
次にハインリッヒの法則について解説します。有名な法則なので聞いたことがある人もいるかもしれません。
どんな法則なのか。解説します。それは重大な事件・事故発生の前には必ず予兆がある、ということです。一つの重大な事件・事故が発生した時には、必ずそれ以前に29個の軽微な事件・事故が発生しています。さらにその手前に300個のヒヤッとすること、ハッとすること、つまり「ヒヤリハット」があったのです。これがハインリッヒの法則です。別名で「1対29対300の法則」とも呼ばれています。
同法則は、ハーバード・ウィリアム・ハインリッヒという保険技師が見出した法則です。彼は米国の損害保険会社に勤務していました。労働災害の統計分析に携わり、1929年に災害防止策の必要性を訴求するために公表したのが「ハインリッヒの法則」です。
「ヒヤリハット」いう事象がすでに起こってしまっているということは、その前にはそれを引き起こす、誘引する環境があった、ということです。環境因子・滞在的危険性にリスクが潜んでいるのです。それらリスクが顕在化して、一つの事象と現れます。
皆さんは「1対29対300の法則」と覚えておいてください。ここで三つの事例を挙げます。
◆六本木ヒルズ回転ドア事故
2004年3月、六本木ヒルズの回転ドアで事故が起こりました。6歳の男の子が回転ドアに首を挟まれて死亡しました。「死亡」という重大な事故が発生する以前、子どもが回転ドアにぶつかったり挟まったりして、けがをしたという事故が32件、発生していました。死亡には至らなかった事故が発生していたのです。ということは、当然、けがには至らない多くのヒヤリハットを体験した子どもが大勢いた、ということが容易に想像できます。「1対29対300の法則」が当てはまります。
六本木ヒルズの回転ドアが置かれた環境にどんな潜在的な危険性があったのでしょうか。
まず、安全装置センサーに対する過信です。もっといえば、そもそも安全装置の機能不全という問題がありました。子どもが頭から回転ドアの内側に入る、という想定がされていませんでした。そのため、この事故では安全装置センサーが作動せず、首が挟まれてしまったのです。
さらに事故情報を収集する体制にも不備がありました。事故情報をしかるべき責任者クラスに上げるという体制がありませんでした。32件の子どもの事故自体を把握していなかったのです。危険を知らせる前兆があったのにその信号をキャッチできなかったのです。
それだけではありません。回転ドアという機械そのものが問題を抱えていました。当時の回転ドアの重量は500キロを超えていたといいます。なぜなら都心の激しいビル風で勢いよくドアが回転してしまわないようにするためです。
しかし、もともと回転ドアを採用していた欧州ではビル風がなかったので、ドア自体が非常に軽く、危険はほとんどありませんでした。ぶつかってもけがはしませんし、万が一挟まれても大事に至ることはありません。500キロの重量がある回転ドアを設計したこと自体が問題だったのです。人を傷付け、命を奪う可能性を持った機械を作ってしまいました。
このような複数の環境因子、潜在的危険性がありました。これら複合的要因が重なり、死亡事故という重大事故が起こってしまったのです。
◆シンドラー社のエレベーター事故
次の事例は、2006年に起こったシンドラー社のエレベーター事故です。都立高の高校生がマンションのエレベーターに挟まれて死亡しました。
実はこの死亡事故以前に同じマンションのエレベーターで41件の故障やトラブルが発生していました。事故があった5号機と、その隣にあった4号機で事故以前の過去3年間で微音や振動、ロープがねじれるなどの故障やトラブルが多発していました。つまりヒヤリハットが起こっていました。
どんな環境因子や潜在的危険性があったのでしょうか。
エレベーターの保守管理は独立事業者が行っていました。メーカーであるシンドラー社から保守管理に関する情報提供はありました。しかし、メーカーと独立事業者との連携不備やコミュニケーション不足があったので、十分なメンテナンスができていませんでした。それが原因で故障やトラブルが発生していたのにもかかわらず、その事実やそれが意味することをメーカーも事業者も正確に認識していなかった結果、一人の若者が命を奪われたのです。
◆JR西日本の福知山線脱線事故
2005年4月、JR西日本の福知山線で脱線事故が起こりました。死者が107人、負傷者555人という大事故でしたので、皆さんも記憶しているでしょう。
同脱線事故においてもいくつかの予兆がありました。
福知山線は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から京都府福知山市の福知山駅に至る鉄道路線です。同路線では、事故の前に(停車位置を行き過ぎる)オーバーランと回復運転(遅れが出た場合、ダイヤを平常通りに戻すための運転)が頻発していました。私鉄各社との競争が非常に激しく、競争に勝ち抜くために過密なダイヤを組んでいました。このような状況下ゆえに運転手が疲弊していました。速度オーバーもたくさん起こっていました。つまり運転手は多くのヒヤリハットを体感していたに違いありません。
なぜ、このような重大事故が起こったのか。その環境因子や潜在的危険性をまとめると次のとおりです。
・安全重視ではなく、利益を最優先していた。
・(前述の状態に対する)危機意識が希薄だった。
・危険予測分析が欠如していた(ヒヤリハット情報収集における未整備)。
・安全投資を怠っていた(旧式の列車停止装置のままだった)。
※当時、新型の自動列車停止装置(ATS)が出回っていたが、投資しなかった。
・運転ミス防止に対する対策が不十分だった(日勤教育や人員配置が不十分だった)。
このような環境因子、潜在的危険性からヒヤリハットが生まれます。この信号に気付かないと、軽微な事件・事故が生まれます。それでも気付けないまま対応を疎かにすると、重大な事件・事故が起こってしまうということです。
事故には全て予兆があります。その予兆にこそ、重大な事故を発生させる環境因子や潜在的危険性がある、と認識することが重要な視点です。
そこで問われるのが「リスク感性」です。
リスク感性とは何か。リスクを見抜く、リスクを察知できる感性といえます。この感性が低いと予兆を見逃してしまい、最悪の場合、重大事故につながります。
最後にリスク感性を養う五つのポイントを挙げます。次のスライドのとおりです。
少し補足説明します。
1.常識を疑う
ルール、社会は移り変わる
2.他社目線 生活者の視点を忘れない
企業目線だけだと必ずリスクを見抜けない
生活者の視点、ユーザーの視点、顧客の視点、地域社会の視点を忘れない
3.明日は我が身 「対岸の火事」としない
事件・事故に対し、常に自分の身にも起こり得ると捉える
4.当事者意識 「他山の石」とする
事件・事故から自らの教訓を学ぶ
5.本気と本音 見せかけと建て前はいらない
見せかけと建て前からは有益かつ重要な情報が組織に行き渡らない
コミュニケーション不全に陥る
今回は「1.リスクマネジメントの基礎」の「②損失発生のメカニズム」を解説しました。次回から2回にわたって、「リスクマネジメントとは」について解説します。
★参考文献『リスクマネジメント基礎講座テキスト』(発行:NPO法人日本リスクマネジャー&コンサルタント協会)