クラファン活動報告㊴第4回Facebookライブリポートその2 〜私自身のストーリー

第4回Facebookライブリポートその2 〜私自身のストーリー

◆クラウドファンディングの活動報告ページ◆

皆さん、おはようございます。暖かいメッセージやご支援に心から感謝していますありがとうございます

きのうは沼津で高校のプチ同窓会。28人が集まり、旧交を温めました。企画した同級生(当クラウドファンディング応援者)の配慮で開会の乾杯のあいさつをおおせつかり、クラファンのことも宣伝させてもらいましたありがとうございます

昨日の活動報告(5月5日)では、西川寿美礼さんが受けた「個別オンライン相談」の感想を紹介。同じ第4回のFacebookライブでは私自身のストーリー(舞台裏)にも触れたのです。

4月26日の段階で、次週のFacebookライブをどんな内容にするのかを西川さんと決め、まず、われわれ自身が自らのストーリーを語ろう、ということに。

そこで過去の記憶を思い起こすために、一つ一つのエピソードを書き出して事前に整理

その内容を今回は転載しますね。
――――――――――――――――――――――――――
小さい頃、今の姿(身長183cm、体重86kg)からは想像できないほど身体が弱く、運動神経も鈍かった

確か小学校1、2年生の時の通信簿。体育の成績は5段階で「2」
小学4年生までは毎年高熱を出して、1週間前後学校を休んでいた
近所の広場で一つ下の従妹と競走。ちょっとぶつかり足がもつれて私一人が転んで、膝をケガしたりした。

◆4年連続の徒競走クラス最下位からリレー選手へ

小学校の運動会。一つの見せ場が徒競走。当時、同程度の足の速さの生徒たちが5人1組となって、競う。(同じクラスの中だったのか、学年全体だったのかは記憶はあいまいだが)私は1年生の時、最も足の遅いグループで最下位、「ビリ」だった。

2年生も3年生も同じ結果。4年生では汚名返上とばかりに気合いを入れて走った。
確か4位くらいで後半を迎え、「やった! ビリから脱出だ」と思い、勢いよく前のめりにゴールした。
つもりだった。だが、そこはまだゴールではなく、一区切り前のラインだった。

こうして4年連続「ビリ」という悔しい結果となった。

◆毎日「ルームランナー」で走り続ける

私の足の遅さを両親が憂いてか、その頃「ルームランナー」というランニング器具が家に届いた。ジムにあるようなマシンではなく、床に置いた器具の上で腿上げを繰り返すだけ。確か時間が計測できるタイプだったと記憶している。

父の提案で毎日10~20分程度、「ルームランナー」で走ることにした。食後、全身が映る大きな窓の前で黙々と走り続けた
成長期と重なっただけかもしれない。あるいは交通事故の後遺症みたいなものから脱却できたのかもしれない。
約1年続けた結果、なんと5年生の時は運動会でクラスのリレー選手に選ばれたのだ。

◆6歳の時、交通事故で右大腿骨を複雑骨折

実は幼稚園(6歳)の時、家の目の前の狭い道路で交通事故に遭った。両親が開業医で自宅の1階が診療所、2、3階が自宅だった。私は幼稚園から帰宅し、外に遊びに出かけるため、2階にある住宅の玄関から階段を降りて、そのまま一直線に道路に飛び出た。

すると、右手方向から自動車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。国道136号線から職業安定所に向かう狭い路地を入って2軒目が診療所兼自宅だった。

おそらくそのまま走り抜ければ何事も起こらなかったと思う。何を思ったのか、私は車に驚き慌てて階段方向に引き返そうとした。身体を捻り、戻ろうとした瞬間、転んでしまったのだ。私は運動神経がすこぶる悪い。従妹と走っても、足がもつれて転ぶくらいの鈍さだ。

左膝を曲げた状態で前のめり(膝を抱え込むような姿勢)で転んだ。右足は後方に伸ばした状態だった。右足が左前輪にひかれ、そのまま7m引き摺られた。子どもの悲鳴と急ブレーキに驚いた父が診療所から駆け出て、車の下敷きになっていた私を抱き上げてくれた

父は息子の右の太腿が不自然に曲がり揺れているのをみて、「これは骨折している」と声を漏らした。

◆遠方の横浜で長期の入院生活

故郷の伊豆下田とその近辺には大病院はない。近所にあった割と設備の整った外科病院に運ばれたが、複雑骨折のため、医師は手術を断念。
応急措置にとどめ、翌日父の運転する車で、横浜にある子ども専門病院へと向かい、結局4~5カ月ほど入院した。
リハビリも大変だった。右膝は真っ直ぐ伸ばすことができないし、段差の低い所に腰掛けた状態から立ち上がることができなかった。右足に思うように力が入らないからだ。

退院後もしばらく自宅でリハビリを続けていたことを鮮明に覚えている。

おそらくその後遺症のようなものもあり、両足を交互にバランスよく蹴り上げることができなかったのかもしれない。それがルームランナーを毎日続けることで改善され、結果としてリレー選手の道が開けたかもしれない。

◆腕立て伏せもできない非力

リレー選手になった5年生のころ、もう一つ発覚したことがある。筋力が弱いということだ。腕立て伏せがまともにできなかった。これまた一つ下の従妹が確か10回前後、年子の兄はもっとできた。

これも確か父か母の提案だった。
床ギリギリまで下げなくてもいいから、少しでも肘を曲げれば、1回とカウントし、とにかく1日1回ずつ腕立て伏せの回数を増やしていくことにした。
これもひたすら黙々と続けた。確か小学校6年生の時、100回まで到達した。
すると次は胸を床面すれすれのところまでしっかりと下げた正式な腕立て伏せ30回に挑戦することとなった。
30回できるようになったら、次は1回でも多くできるように毎日挑戦した。

これは中学3年間、ほぼ毎日続け、3年生の頃には300回できるようになっていた。

高校に入ると柔道部に入った。
腕立て伏せの延長線で、部活終了後、体育館1階の筋トレルームに一人で向かい、ベンチプレスに挑戦した。部活がある日は欠かさず毎日続けた。高校2年生の冬、確か2月の始め頃、110kgを挙げられるまでになっていた。
同級生はもちろんのこと、当時の3年生にも100kgを挙げられる人はいなかったので、学校で1番だった。

―――――――――――――――――――――――――――

次回のFacebookライブ(第5回)は5月10日(金)15時過ぎより40分前後の予定で開催します。

西川さんのFacebookのタイムラインで流れます。

ぜひリアルタイムで、あるいはアーカイブでご視聴ください。

◆クラウドファンディングの活動報告ページ◆

前の記事へ 次の記事へ