#12 「教育と資本主義のあいだ」第2回 教育は、誰の期待を引き受けているのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
教育と資本主義のあいだ
第2回 教育は、誰の期待を引き受けているのか 〜子どものため、という言葉の奥で、別の期待が重なっていた〜
子どもの未来の話をしているはずなのに、
その奥では、いつも大人たちの期待が動いている。
教育とは、誰のためのものなのか。
その問いは、思っていたより簡単ではなかった。
子どものため、という言葉の奥で
教育は、子どものためのものだと言われる。
その言い方に、異論はない。
むしろ、そうであってほしいと思う。
学ぶ力を育てること。
可能性を広げること。
生きていく土台を整えること。
どれも大切なことだ。
けれど、教育について語られる言葉を静かに追っていると、
私はときどき、その素直な言い方の奥で
別のものが動いている気がする。
将来、困らないように。
社会で通用するように。
よい仕事に就けるように。
安定した人生を歩めるように。
どれも、
子どもを思う気持ちから出てくる言葉なのだろう。
ただ同時にそこには、
親の不安も、
時代の空気も、
社会の都合も、
少しずつ混ざっている。
「子どものため」という言葉は、やさしい。
だからこそ、その中に何が入り込んでいるのかが見えにくくなる。
私は最近、
その見えにくさに少し立ち止まっている。
重なっている複数の期待
教育には、
いくつもの期待が重なっている。
親は、わが子に困ってほしくないと思う。
学校は、社会の中で生きていける力を育てようとする。
企業は、変化に適応できる人材を求める。
社会は、秩序を支える次の世代を必要とする。
そのどれか一つが、悪いという話ではない。
問題は、
それらが静かに重なり合いながら、
いつのまにか教育の重心そのものを動かしていくことなのだと思う。
子どものための教育であるはずなのに、
気づけばそこに、
大人たちの願いと不安、
社会を維持したいという側の要請、
市場が求める適応力が入り込んでくる。
しかもそれは、
露骨なかたちでは現れない。
もっと自然な言葉で現れる。
可能性。
自立。
主体性。
社会で生きる力。
変化に対応する力。
どれも、正しい。
どれも、必要なのだと思う。
けれど、
そうした言葉が並ぶほど、
私は少しだけ気になってしまう。
それはほんとうに、
子ども自身のための言葉なのだろうか。
それとも、
子どもがこれから入っていく社会の側が、
都合よく求めている力の名前でもあるのだろうか。
教育は、いつも善意の顔をしている。
だからこそ、その中に入り込んだ期待の層は見えにくい。
教育の背後にある社会の重心
たぶん教育とは、
子どもを育てる場であると同時に、
社会が次の世代に何を求めるのかを映し出す場でもある。
だから、その時代の重心は
教育の言葉に滲み出る。
成長が強く求められる時代には、
競争に耐える力が重くなる。
変化の速さが強調される時代には、
適応や主体性が前に出てくる。
不安が深まる時代には、
「困らないための教育」が強く語られる。
教育は、
いつも社会から少し遅れて、
しかし確実に、
その空気を引き受けてしまうのかもしれない。
もしそうだとすれば、
教育をめぐる議論は、
教育だけを見ていても足りないのだと思う。
私たちは、
どんな社会を前提にして、
子どもに何を求めているのだろう。
安定して生きられる人になってほしい。
役に立つ人になってほしい。
自分の人生を切り開ける人になってほしい。
どれも否定はできない。
けれど、その願いの中にはいつも、
社会の側の期待が少しずつ混ざっている。
教育とは、
子どもが自分を育てていくための場なのか。
それとも、
社会が安心するために必要な力を、
次の世代に身につけさせる場でもあるのか。
私はまだ、はっきりした答えを持っていない。
ただ、
教育は子どものためのものだ、
という言葉を、そのまま受け取れなくなっている。
その言葉の中には、
愛情だけではなく、
不安も、期待も、
社会の都合も、
静かに折り重なっている気がするからだ。
そして、その折り重なりの中で、
子ども自身はどこにいるのだろう、と思う。
教育は、誰の期待を引き受けているのか。
この問いは、
学校を責めるためのものではない。
親を責めるためのものでもない。
むしろ、
私たち自身が何を願い、何を恐れ、
その結果として教育に何を背負わせているのかを
見つめるための問いなのだと思う。
次に立ち上がってくるのは、
その期待を受け止める言葉として、
近年とても美しく、そして便利に使われている
ある概念なのかもしれない。
非認知能力。
その言葉は、
いったい誰のための言葉になったのだろうか。
