#15 「教育と資本主義のあいだ」第3回 非認知能力は、誰のための言葉になったのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

教育と資本主義のあいだ

第3回 非認知能力は、誰のための言葉になったのか やさしい言葉が、成果の言葉に変わっていくとき

点数では捉えきれないものに光を当てようとしたはずの言葉がある。

そのこと自体は、教育を少し広くする出来事だったのだと思う。

けれど言葉はときに、救いであると同時に、別の期待を運ぶ器にもなる。

点数では測れないものに光が当たったはずだった

非認知能力という言葉を初めて聞いたとき、
私は少しほっとするような感覚があった。

学力だけでは見えないものがある。
テストの点数だけでは捉えられない力がある。
やり抜く力。
自制心。
協働する力。
好奇心。
人と関わる力。

そうしたものにも、ようやく目が向けられ始めたのだと思った。

それは、教育を少し広く見るための言葉だったはずだ。
数字ではこぼれ落ちてしまう人間の輪郭を、
なんとか言葉にしようとする試みだったはずだ。

その意味で、
非認知能力という言葉には確かに救いがあった。

学力だけで子どもを見ないこと。
成績だけで可能性を測らないこと。
目に見えにくい力にも意味があると認めること。

それは、
教育にとっても、
子どもを見るまなざしにとっても、
大切な広がりだったのだろう。

だから私は、
この言葉そのものを否定したいわけではない。

むしろ最初は、
ようやくここまで来たのか、
という感覚に近かった。

けれど、
この言葉が広がっていくのを見ているうちに、
少しずつ別の違和感が生まれてきた。

やさしい言葉に、別の重心が入り込む

非認知能力は、
表面だけ見れば、とても穏やかな言葉である。

点数だけではない。
一人ひとりの内側にある力にも目を向けよう。
人として育っていくうえで大切なものを見よう。
そう言われれば、
たしかにその通りだと思う。

けれど、この言葉が使われる場面を静かに見ていると、
いつのまにか別の重心が入り込んでいる気がしてくる。

やり抜く力が大事だ。
自己制御が大事だ。
主体性が大事だ。
協働する力が大事だ。

そのこと自体に異論はない。

ただ、それらが語られるとき、
どこかでいつも、
「将来うまくいくために」
「社会で通用するために」
「結果を出せる人になるために」
という響きが混ざり始める。

すると、
本来は子どもを点数だけで見ないための言葉だったはずのものが、
少しずつ別の働きを持ち始める。

それは、
人の内面に光を当てる言葉であると同時に、
競争に耐えられる人を育てる言葉にもなっていく。

おそらく、
誰かが意図してそう変えたわけではない。

けれど、
社会の側が求めるものが強くなると、
教育の言葉は少しずつその方向へ引かれていく。

適応できる人。
折れにくい人。
周囲とうまくやれる人。
自分を律して前に進める人。

そうした人材像を、
命令ではなく、
やわらかな言葉で語るとき、
非認知能力という概念はとても使いやすい。

ここに、
私はうまく言葉にしきれない息苦しさを感じる。

強い言葉なら、
人は警戒する。
けれど穏やかな言葉は、
そのまま心の中に入ってきてしまう。

この言葉には、
たしかに人を広く見るための意義があった。
だからこそ、その中に別の期待が入り込んでも、
それが見えにくい。

その見えにくさが、
いまの私には少し気になっている。

人を豊かに見るための言葉だったのか

たぶん問題は、
非認知能力という言葉が間違っていることではない。

むしろ逆なのだと思う。

この言葉は、
ほんとうに大切なものに触れていた。
だからこそ広がったのだろうし、
多くの人がそれを必要としていたのだろう。

ただ、大切な言葉ほど、
社会の側にとっても使いやすくなることがある。

人を単純な点数で切り分けない。
そのことは前進だったはずなのに、
気づけば今度は、
別の力の有無で人が見られ始める。

やり抜けるか。
折れないか。
周囲とうまくやれるか。
自分を整えられるか。
変化に応じられるか。

それらはたしかに大切な力なのだろう。
けれど、それが並び始めた瞬間に、
私は少しだけ立ち止まりたくなる。

それは、
子どもが自分らしく育つための言葉なのだろうか。
それとも、
社会が受け入れやすい人になるための条件なのだろうか。

非認知能力という言葉は、
本来、人間をより豊かに見るためのものだったはずだ。

けれどもし、
その言葉がいつのまにか
適応や成果の語りの中で使われるようになっているのだとしたら、
私たちはそこで何を見失い始めているのだろう。

点数では測れないものに光を当てたかったはずなのに、
その光もまた、
別の競争を支えるために使われ始めているのかもしれない。

私は、
非認知能力という言葉を捨てたいわけではない。
ただ、その言葉がどこへ向かって使われているのかを、
もう少し丁寧に見ていたいと思う。

穏やかな言葉ほど、
その奥にある期待は見えにくい。

そして、
見えにくいものほど、
いつのまにか人を縛り始めることがある。

非認知能力は、誰のための言葉になったのか。

この問いは、
概念そのものを疑うためのものではなく、
その概念がいま、
どんな社会の重心の中で使われているのかを
見つめるためのものなのだと思う。

学びとは、
こうした力を身につけて、
社会に適応していくためだけのものなのだろうか。

次に残る問いは、
たぶんそこにある。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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