#14 「責任の境界線」第4回 責任はどこで止まるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計
第4回 主体と主体のあいだに、何があるのか
第3回で、私は「責任はどこで止まるのか」という問いを書いた。
家庭の外へ出たゴミは、
自治体の領域へ移る。
処理施設を経て、
別の場所へ運ばれ、
ときに国境も越えていく。
そのたびに、責任の境界線も引き直される。
だが、考えているうちに、
もう一つ手前にある問いが気になり始めた。
そもそも、
その責任を負う主体とは誰なのだろうか。
そして本当は、
その問いだけでは足りないのではないか。
家庭は主体なのか
私たちは日々、ゴミを出している。
買う。
使う。
捨てる。
その意味では、
家庭はたしかに一つの主体である。
しかし、家庭は本当に自由に選んでいるのだろうか。
商品はすでに包装され、
流通の仕組みの中で運ばれ、
自治体の分別ルールに従って捨てることが前提になっている。
家庭は起点ではある。
だが、すべてを決めているわけではない。
自治体は主体なのか
自治体もまた、主体のように見える。
分別のルールを定め、
回収し、
処理の仕組みを運用する。
だが、自治体もまた、
完全に自由な主体ではない。
国の制度。
予算。
既存の焼却施設。
地域住民の理解。
処理能力の限界。
そうした条件の中で、
自治体は判断している。
つまり自治体も、
単独で完結する主体ではない。
企業は主体なのか
商品を作る企業はどうだろうか。
素材を選び、
包装を設計し、
流通の仕組みを組み立てる。
この意味で、
企業もまた大きな主体である。
しかし企業もまた、
消費者の価格感覚、
市場競争、
株主の期待、
法制度の制約の中に置かれている。
企業が単独で世界を決めているわけでもない。
私たちは、主体を単数で探しすぎているのかもしれない
ここまで考えてくると、
少し奇妙なことに気づく。
私たちは何か問題が起きるたびに、
主体を単数で探そうとする。
・家庭の意識が低い
・自治体の制度設計が弱い
・企業の責任が重い
・国の政策が不十分だ
もちろん、どれも間違いではない。
だが、そのたびに
問題は一つの場所へ押し込まれる。
本当は、もっと複数の主体が重なり合って
一つの結果を生み出しているのではないか。
だが、重なっているだけではない
ここで、もう少し言葉を変えてみたくなる。
主体は「重なっている」と言える。
しかし実際には、
ただ重なっているのではなく、
主体と主体のあいだ が存在しているのではないか。
家庭と自治体のあいだ。
自治体と企業のあいだ。
企業と消費者のあいだ。
国内と海外のあいだ。
その「あいだ」で、
責任は受け渡され、
説明は省略され、
判断は宙に浮く。
主体が複数あることそれ自体よりも、
そのあいだが見えていないことの方が、
問題なのかもしれない。
空白は、どこに生まれるのか
誰も無責任であるつもりはない。
家庭も、自治体も、企業も、
それぞれの範囲で努力している。
それでも全体としては、
うまくいかないことがある。
そのとき起きているのは、
責任の放棄というより、
責任の空白なのではないか。
家庭が終わったと思ったところから先。
自治体が引き受けたつもりになった先。
企業が制度の外に置いた先。
その「あいだ」に、
見えにくいリスクが生まれている。
「誰のものなのか」という問いの先へ
第2回で、私はこう書いた。
ゴミは、誰のものなのか。
この問いは、
所有の話に見えて、
実は主体の話でもあったのだと思う。
誰のものか、と問うとき、
私たちは同時に
誰が引き受けるのか、と問うている。
しかし現実には、
引き受ける主体は一人ではない。
家庭もいる。
自治体もいる。
企業もいる。
制度を作る側もいる。
そして、それを見ている市場や社会もいる。
主体は、一つではない。
そして、その一つひとつのあいだに、
まだ言葉になっていない空白がある。
主体とは、立場ではなく接続の仕方なのか
ここで、私は少し考え方を変えたくなる。
主体とは、
固定された立場のことなのだろうか。
家庭だから主体。
自治体だから主体。
企業だから主体。
そう整理すると、
分かりやすい。
だが、現実はもう少し曖昧だ。
主体とは、
どの問題に、
どの時間軸で、
どこまで接続しているか、
その引き受け方のことではないか。
そう考えると、
主体は最初から与えられているものではなく、
あとから立ち上がるものにも見えてくる。
そして、その立ち上がりは
一つの主体の内部だけで起きるのではなく、
主体と主体のあいだでも起きているのかもしれない。
まだ、答えは出ていない
環境問題を考えるとき、
私はつい「誰が悪いのか」という問いに引き寄せられそうになる。
しかし、ここまで来ると、
その問いだけでは足りない気がしている。
誰が悪いのか、ではなく、
誰がどこまで主体になっているのか。
そしてさらに、
主体と主体のあいだに、
何が置かれ、
何が抜け落ちているのか。
たぶん次に考えるべきなのは、
そこなのだろう。
だが私はまだ、
その「あいだ」を
一つの言葉にできずにいる。
制度なのか。
関係なのか。
受け渡しなのか。
あるいは、
見えないまま放置されてきた責任そのものなのか。
いまはまだ、
その問いを開いたままにしておきたい。
