#17 「責任の境界線」第5回 未来は、誰の責任として残るのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計

第5回 未来は、誰の責任として残るのか

第4回で、私は「主体と主体のあいだに、何があるのか」と問うた。

家庭と自治体のあいだ。
自治体と企業のあいだ。
企業と消費者のあいだ。
制度をつくる側と、それに従う側のあいだ。

そのあいだで、責任は受け渡される。
だが同時に、説明は省略され、
判断は宙に浮き、
空白もまた生まれる。

ここまで考えてきて、
もう一つ気になり始めたことがある。

その空白に落ちているのは、
主体だけではないのではないか。

そこには、
時間 もまた落ちているのではないか。

私たちは、いまの単位で責任を考えている

私たちは日々、
責任をある単位で考えている。

家庭の責任。
自治体の責任。
企業の責任。
国の責任。

そして時間もまた、
ある単位で切られている。

今日。
今期。
年度内。
任期中。
予算の範囲。

もちろん、それ自体は必要なことだ。
社会は、限られた単位で区切られなければ動かない。

だが、その区切り方が
私たちの責任感覚そのものを形づくっているとしたらどうだろう。

「ここまでやった」
「今期の中では対応した」
「制度の範囲では処理した」

そうした言い方には、
どこかで時間の境界線が引かれている。

ごみは、今日捨てられる

ごみは、今日捨てられる。

家庭の中で不要になり、
分別され、
回収され、
処理の系統に乗る。

ここまでは、
比較的よく見える。

だが、その先にある時間はどうだろうか。

焼却されたあと。
埋め立てられたあと。
再資源化されたあと。
輸出されたあと。

影響はすぐに現れるとは限らない。
数年後かもしれない。
数十年後かもしれない。
あるいは、
いまよりも先の世代が引き受けるかたちで現れるのかもしれない。

そう考えると、
環境問題は「空間の移動」の問題であると同時に、
時間の先送り の問題にも見えてくる。

いまの主体は、未来を含んでいるのだろうか

ここで、少し立ち止まりたくなる。

家庭は、未来を含んでいるのだろうか。
自治体は、未来を含んでいるのだろうか。
企業は、未来を含んでいるのだろうか。

理念としては、たぶん含んでいる。
少なくとも、含んでいることになっている。

だが実際の判断は、
どうしても現在の条件に引っぱられる。

生活費。
予算。
採算。
選挙。
株価。
目先の利便性。

それらを否定することはできない。
人も組織も、
まずは現在を生き延びなければならない。

しかし同時に、
その現在中心の判断の中で、
未来はいつも少しずつ外側へ押し出されているのではないか。

次世代は、まだ主体ではない

「次世代のために」という言葉は、よく使われる。

環境問題に限らず、
教育でも、財政でも、地域でも、
この言葉はたびたび現れる。

けれど、次世代はまだここにいない。
少なくとも、現在の制度の中では、
十分な主体としては扱われていない。

議決権もない。
契約の当事者でもない。
いまの判断に異議を唱えることもできない。

その意味で、次世代は
主体の一つでありながら、
現在の主体としては数えられにくい存在なのかもしれない。

だからこそ、
未来は理念として語られても、
責任としては残りにくい。

「責任として残る」ということ

ここで、タイトルに戻ってくる。

未来は、誰の責任として残るのか。

この問いには、
どこか奇妙な響きがある。

未来は本来、
残すものではなく、
迎えるもののようにも思える。

だが環境問題の文脈で考えるとき、
未来はしばしば
現在の処理しきれなかったものが残る場所
として現れる。

いま決めきれなかったこと。
いま引き受けきれなかった負荷。
いま切り離してしまった時間。

それらが、
未来に残っていく。

すると未来は、
希望の場所であると同時に、
責任の残り方 を引き受ける場所にもなる。

それは放棄なのか、限界なのか

ただ、ここで簡単に断罪したくはない。

未来に負荷を残すことは、
すべて無責任だと言い切れるのだろうか。

現在の主体には、
現在の限界もある。

技術的な限界。
財政的な限界。
社会的な合意形成の限界。
生活の現実。

その中で判断している以上、
何かを未来に委ねること自体は、
避けがたい面もあるのだと思う。

だとすれば問うべきなのは、
未来に残すことそのものの是非ではなく、

それを残すとき、
私たちはどこまで自覚しているのか

ということなのかもしれない。

見えない未来は、見えない責任になる

第3回で書いた「境界」は、
空間の線として見えていた。

第4回で書いた「あいだ」は、
主体と主体の接続の問題として見えていた。

ここに第5回で
もう一つ加わるのだとしたら、
それは見えない時間の広がりだ。

未来は、見えにくい。
だから責任も見えにくくなる。

いまここで判断していることが、
どのくらい先まで届くのか。
どこで別の主体に受け渡されるのか。
その先にいる人たちに、
どのように残るのか。

見えないものは、
つい考えられなくなる。

そして、考えられなくなったものほど、
制度の外に置かれやすい。

「未来のために」では、まだ足りないのかもしれない

ここまで考えてくると、
「未来のために」という言葉にも、
少し物足りなさを感じる。

その言葉は正しい。
だが、どこか遠い。

未来は、
いまの私たちの外側にあるものとして語られやすい。

しかし本当は、
いまの判断の内側にすでに含まれているものなのかもしれない。

そうであるなら、
未来を守るというよりも、
未来がすでに現在の責任の中に含まれているような設計が必要になる。

だが、その設計が何なのか、
私はまだうまく言葉にできない。

まだ、答えは出ていない

環境問題を考えることは、
ごみの処理方法を考えることだと思っていた。

だが、ここまで来ると、
それだけではない気がしている。

それは、
責任をどこで区切るのかを考えることであり、
主体がどこで立ち上がるのかを考えることであり、
さらに、
その責任がどの時間まで届いているのかを考えることでもある。

未来は、誰の責任として残るのか。

家庭なのか。
自治体なのか。
企業なのか。
制度をつくる側なのか。
それとも、
現在という時間そのものの持ち方なのか。

いまはまだ、
その問いを閉じずに置いておきたい。

未来が主体の外側に置かれているのだとしたら、
私たちはこれから、
何を責任として引き受け直さなければならないのだろうか。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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