#16 「不正会計と企業統治」第4回 企業はどこまでを身内として引き受けるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

不正会計と企業統治 ― 成長の論理と統治の論理は、なぜ衝突するのか

第4回 企業はどこまでを身内として引き受けるのか

企業統治という言葉には、どこか管理や支配の響きがあります。

不祥事が起きると、

統治体制の見直し
・監査の強化
・内部統制の再構築


そうした言葉が並びます。

もちろん、それ自体は必要です。
企業統治が制度である以上、仕組みを整えなければ、組織の暴走は防げません。

ただ、その言葉の響きに引っ張られると、見えにくくなるものがあります。

企業は制度だけで動いているわけではありません。
そこには日々の取引があり、協力会社があり、現場を支える外部の人たちがいる。
法的には社外であっても、実際には企業活動を共につくっている存在がいます。

そう考えると、ひとつの問いが浮かびます。

企業は、どこまでを自分たちの内側として受け取っているのだろうか。

◆社内だけを見ていてよいのか

これまで企業統治は、主に社内を対象とする仕組みとして語られてきました。

取締役会。
監査役。
監査法人。
社外取締役。
内部統制。

いずれも重要です。
しかし、その多くは、企業の内部で起きていることをどう監督するか、という発想で設計されています。

その結果、私たちは無意識のうちに
「社内」と「社外」を分けてしまいます。

社内は統治の対象。
社外は取引や契約の対象。

けれども現実の企業活動は、そこまですっきり分かれてはいません。

とりわけ製造業のように、調達先や協力会社との関係の上に成り立っている企業では、外部の取引先は単なる外側の存在ではありません。
数字の裏側にも、納期の裏側にも、原価の裏側にも、いつも外部の関係が入り込んでいます。

にもかかわらず、不正会計や企業不祥事が語られるとき、その関係はしばしば背景へと退いていきます。

問題は社内で起きたこと。
責任も社内にある。
そう整理した方が分かりやすいからです。

しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

◆異常な声は、どこで消えていくのか

不正は、帳簿の上で初めて生まれるわけではありません。

その手前には、必ず現場の違和感があります。

無理のある目標。
不自然な要請。
説明のつかない調整。
言葉にしにくい圧力。

そして、それは必ずしも社内の人間だけが感じるものではありません。

取引先だからこそ見える異常があります。
協力会社だからこそ引き受けさせられる無理があります。
現場に近い外部の人間だからこそ、最初に察知する歪みがあります。

にもかかわらず、そうした声は企業統治の議論の中で後景に退きやすい。

企業の外にいるから。
正式な社員ではないから。
取引関係であり、経営の内部ではないから。

けれども、ここに大きな盲点があるのではないかと思います。

企業の判断は、社内だけで完結していない。
そうであるなら、異常の兆候もまた、社内だけに現れるわけではないはずです。

むしろ、社内で言いにくくなったことほど、外部との関係の歪みとして先に表れることがある。

無理な値引き要求。
説明のつかない押し付け。
不自然な沈黙。
問題が起きているはずなのに、誰もそれを問題として扱おうとしない空気。

それらは単なる取引上の摩擦として処理されがちです。
しかし見方を変えれば、企業の判断がどこかで傾き始めている兆候でもあります。

◆法的な外側と、実質的な内側

ここで難しいのは、社内と社外の境界をなくせばよい、という話ではないことです。

法的な境界は必要です。
責任を明確にするためにも、権限を整理するためにも、組織の線引きは残さなければなりません。

ただ、その一方で、企業が耳を澄ませるべき範囲まで狭くしてしまえば、統治は形式だけが残ります。

法的には外部。
しかし実質的には、企業活動を共につくり、同じ圧力の中に置かれ、同じ歪みの影響を受ける存在がいる。

そうした相手を、企業はどこまで自分たちの問題として受け取っているのか。

私は、この問いを避けていては、企業統治の限界は見えてこないと思います。

社外だから、知らなかった。
取引先だから、経営の問題ではなかった。
契約の問題であって、統治の問題ではなかった。

こうした言い方は、一見もっともらしく見えます。
しかし、その線引きが繰り返されるたびに、企業は自分たちの判断が及ぼしている影響の一部を、外側へ押し出していきます。

そして外側に押し出されたものが、後になって不正や不祥事の一部として戻ってくる。
そういうことが、実際には起きているのではないでしょうか。

制度だけでは遅い

ここで改めて感じるのは、制度だけでは遅い、ということです。

監査を強化する。
通報窓口を整備する。
統治体制を見直す。

どれも必要です。
ただ、それらは多くの場合、問題が制度上の論点として認識された後で動きます。

しかし現実には、そのもっと手前で、異常は関係の中に現れています。

相手が困っているのに、見ない。
無理が起きているのに、取引条件の問題として処理する。
現場に痛みが出ているのに、それを数字の達成と引き換えに受け入れてしまう。

こうしたことは、制度の不足というより、もっと前の段階の問題です。

相手の異常や痛みを、自分たちの判断の中に入れているかどうか。
その感覚が痩せたとき、制度は残っていても、統治は空洞化します。

どれだけ立派な制度をつくっても、相手の違和感を自分たちの問題として受け止める感覚がなければ、警告は届きません。
制度があるのに不正が起きる一因は、ここにもあるのだと思います。

◆感情は、統治に無関係ではない

企業統治を語る場で、感情という言葉はあまり好まれません。

感情を持ち込むと議論が曖昧になる。
情に流された経営になる。
そう考えられやすいからです。

けれども現実には、企業の判断は感情と無関係ではありません。

期待がある。
恐れがある。
焦りがある。
守りたいという気持ちがある。
失いたくないという感覚がある。

そしてもうひとつ、相手をどう見ているかという感情があります

単なる取引先として見ているのか。
困ったときに切り離せる相手として見ているのか。
それとも、自分たちの仕事を共につくる存在として見ているのか。

この違いは、経営の言葉には表れにくい。
しかし、異常が起きたときの反応には、はっきり表れます。

もし相手を本当に大切な存在として見ているなら、無理な要求や不自然な沈黙は、もっと早く「これはおかしい」という感覚を生むはずです。

だから私は、企業統治を制度だけで捉えることには限界があると思います。

統治とは、ルールを整えることだけではない。
誰の痛みや異常を、自分たちの判断の中に入れるのか。
その範囲をどう定めるのか。
そこまで含めて考えなければ、企業統治は現実に届かないのではないでしょうか。

◆どこまでを身内として引き受けるのか

企業は、どこまでを身内として引き受けるのか。

この問いは、情緒的な共同体論を語りたいのではありません。
むしろ逆です。

身内だから甘くする、という話ではない。
身内だからこそ、異常を見過ごさない。
身内だからこそ、相手に無理を押しつけたまま平然としていられない。


そういう意味での内側です。

法的な境界は残る。
組織としての区別も残る。
けれども、判断が及ぼす影響を受ける人たちの声まで、企業統治の外に置いてよいわけではない。

企業統治が本当に問われるのは、まさにそこなのだと思います。

監視の制度を増やす前に、
企業の内側をどこまで広く捉えるのか。
誰の違和感までを、自分たちの問題として引き受けるのか。

その問いを抜きにして、企業統治を語ることはできないのではないでしょうか。

次回は、市場は企業を正しく評価しているのかという視点から、企業の外側にありながら、企業の判断に強く入り込んでくる圧力について考えてみたいと思います。

評論としてではなく、私自身の迷いと判断の履歴として、ここに残していこうと思います。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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