#19 「不正会計と企業統治」第5回 市場は企業を正しく評価しているのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
不正会計と企業統治 ― 成長の論理と統治の論理は、なぜ衝突するのか
第5回 市場は企業を正しく評価しているのか
企業不祥事が起きるたびに、私たちは企業内部の問題に目を向けます。
経営者の責任。
取締役会の監督不全。
内部統制の不備。
監査の形骸化。
どれも重要です。
実際、不正は企業の内側で意思決定され、組織の中で進んでいきます。
しかし、ここまで考えてきて、私はもう一つの問いを避けられなくなりました。
企業の判断を強く動かしている「外側」は、いったい何を見ているのだろうか。
言い換えれば、
市場は企業を正しく評価しているのでしょうか。
市場は、何を評価しているのか
市場は、中立な存在のように語られます。
株価は結果である。
投資家は合理的である。
市場は企業価値を映す鏡である。
そうした理解は、ある程度までは正しいのだと思います。
けれども、現実の市場が見ているものは、いつも静かではありません。
増収増益。
高い成長率。
期待を上回る決算。
強い事業ストーリー。
将来への期待。
企業は、こうしたものによって評価されます。
もちろん、成長を目指すことも、成果を出すことも、企業にとって必要です。
ただ、ここで少し立ち止まりたくなります。
市場は、その企業がどのような無理の上に成り立っているのかまで見ているのでしょうか。
その数字に至るまでの迷いや揺れや痛みまで、受け取っているのでしょうか。
数字は強い
市場にとって、数字は分かりやすいものです。
売上高。
営業利益。
利益率。
成長率。
株価。
数字は比較できます。
並べることができます。
評価しやすい。
だからこそ、市場はどうしても数字を重く見る。
しかし、企業の現実は、数字だけではできていません。
その数字がどのように作られたのか。
どんな前提の上に置かれているのか。
どんな無理を現場に引き受けさせているのか。
どんな沈黙を積み重ねて成立しているのか。
そこまで見なければ、本当の意味で企業を評価したことにはならないはずです。
けれども実際には、そこは見えにくい。
あるいは、見ようとしても見えない。
市場は多くの場合、企業が外に向けて示した数字と説明の上で判断します。
そのため、企業の内側にある歪みや、関係の中に生じている異常は、表に出るまで評価の対象になりにくい。
市場は企業を評価しているようでいて、
実は企業の一部しか見ていないのかもしれません。
成長の物語は、なぜ強いのか
ここでさらに厄介なのは、市場が数字だけで企業を見ているわけではないことです。
市場は物語も見ています。
この会社は伸びる。
この経営者は強い。
この企業は変革を進めている。
この事業は未来をつくる。
こうした物語は、数字以上に人を動かすことがあります。
多少の不安定さがあっても、強い物語がある企業は期待で支えられる。
逆に、地道で無理のない企業が、物語の弱さだけで低く見られることもある。
市場は、企業を冷静に測るだけではありません。
企業に「こうあってほしい」という期待も投げ込んでいます。
そして企業は、その期待の中で判断します。
成長していなければならない。
強く見えていなければならない。
失速していると思われてはならない。
市場を失望させてはならない。
その圧力は、社内だけでは生まれません。
企業の外側にある評価のまなざしが、企業の内側の判断に入り込んでいくのです。
市場は、企業を誤らせることがある
私は、市場そのものを否定したいわけではありません。
市場には、企業を鍛える面があります。
甘えを許さず、説明責任を求め、資本効率を問い、経営の甘さを正す力もある。
ただ、その一方で、市場は企業を誤らせることもあります。
それは、違法を命じるからではありません。
もっと曖昧な形で起きます。
期待を維持しなければならない。
失望させてはいけない。
成長の物語を途切れさせてはいけない。
そうした空気の中で、企業は少しずつ無理を引き受け始めます。
本来なら立ち止まるべき場面で、
「いまはまだ出せない」
「次で整えればよい」
「ここで弱く見せるべきではない」
と考えるようになる。
その一つひとつは、すぐに不正ではないかもしれません。
しかし、その積み重ねが判断を傾け、不正の手前へと企業を押していく。
市場は企業の外側にある。
けれども、その評価は、確実に企業の内側に入り込んでいます。
正しく評価するとは、どういうことか
では、市場が企業を正しく評価するとは、どういうことなのでしょうか。
利益を出しているかどうか。
成長しているかどうか。
将来性があるかどうか。
もちろん、それらは重要です。
ただ、それだけでは足りないのだと思います。
本当に見るべきなのは、
その企業が、どのように判断しているのか。
どのような無理を引き受けているのか。
どこで立ち止まれるのか。
異論や迷いを残せるのか。
関係の中に生じる痛みを見ないまま進んでいないか。
そうしたことではないでしょうか。
けれども、それらは数値化しにくい。
四半期ごとの比較にも乗りにくい。
市場が得意とする評価の形式とは、相性がよくありません。
だからこそ、難しさがあります。
市場は企業を評価している。
しかし、その評価の形式自体が、企業の健全さを十分に捉えきれていないのではないか。
私はその可能性を感じています。
名経営者は、何によって生まれるのか
この問いは、やがて経営者評価の問題にもつながります。
企業が成長すれば、経営者は称賛される。
株価が上がれば、名経営者と呼ばれる。
拡大に成功すれば、強いリーダーとして語られる。
しかし、その評価は何を見ているのでしょうか。
結果でしょうか。
株価でしょうか。
成長のスピードでしょうか。
もちろん、それらは無視できません。
けれども、もしその結果が、過剰な圧力、沈黙、先送り、関係の歪みの上に成り立っていたとしたらどうでしょうか。
そのとき私たちは、何を評価していたことになるのでしょうか。
市場が称賛する経営者像と、企業を健全に導く経営者像。
この二つは、本当に同じなのだろうか。
ここは、次にもう一段掘らなければならないところです。
外側の評価は、企業の内側をつくる
ここまで考えてくると、企業統治は社内制度だけの問題ではないと改めて感じます。
企業の外側にある市場。
投資家の期待。
報道の注目。
社会が求める成長の物語。
そうしたものが、企業の判断を形づくっています。
つまり企業統治とは、社内の監視だけではなく、
企業の外側から流れ込む評価の力に、企業がどう向き合うのかという問題でもあるのだと思います。
企業は、内側だけで誤るのではありません。
外側から与えられる期待によっても、少しずつ傾いていく。
だからこそ、企業不祥事を企業内部だけの問題として語るだけでは足りない。
市場や評価の構造まで見なければ、企業の判断がどこで歪むのかは見えてこないのではないでしょうか。
次回は、名経営者とは何かという視点から、市場が称賛するリーダー像と、企業を健全に導く経営のあいだにあるズレについて考えてみたいと思います。
評論としてではなく、私自身の迷いと判断の履歴として、ここに残していこうと思います。
