#20 「教育と資本主義のあいだ」第5回 教育は、何を育てる場所であってほしいのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

教育と資本主義のあいだ

第5回 教育は、何を育てる場所であってほしいのか 〜答えを出すためではなく、問いを残すために書く〜

ここまで書いてきても、
私はまだ教育の答えを持っていない。
けれど、何を育てるのかという問いだけは、
曖昧なまま通り過ぎてはいけない気がしている。

問いの終わりで、もう一度そこへ戻る

この連載は、
教育の話をしているはずなのに、
いつのまにか「稼ぐ力」や「適応」や「社会に求められる力」の話になっている、
その違和感から始まった。

学ぶことは、稼ぐことなのか。
教育は、誰の期待を引き受けているのか。
非認知能力は、誰のための言葉になったのか。
学びは、適応のためだけにあるのか。

問いを重ねるたびに、
少しずつ見えてきたものがある。

それは、教育がつねに、
子どもの未来だけではなく、
社会の側の期待や不安や都合も背負わされている、ということだった。

だから教育は、
きれいごとだけでは語れない。
生きていくための力を育てることも必要なのだろう。
社会と接続することも必要なのだろう。
役に立つことも、
まったく否定はできない。

けれど、
そこまで見えてきたあとで、
どうしてももう一度戻りたくなる問いがある。

教育は、
何を育てる場所であってほしいのか。

役に立つことの先にあるもの

この問いに、
うまく答えることはできない。

人格です、と言ってしまえばきれいすぎる。
生きる力です、と言ってしまえば曖昧すぎる。
社会に出るための準備です、と言ってしまえば狭すぎる。

たぶん教育は、
そのどれか一つだけではないのだと思う。

ただ、
ここまで書いてきて、
少なくとも一つ感じていることがある。

教育があまりに
社会に合うことだけへ寄っていくとき、
人はうまく生きられるようにはなるのかもしれない。
けれどそのぶん、
何のために生きるのかを考える時間は、
少しずつ痩せていくのではないか。

求められる力を身につけること。
評価される人になること。
役に立つこと。
必要とされること。

どれも大切なのだろう。
けれど、
それだけが教育の中身になってしまうとしたら、
そこでは人は、
うまく整えられていく代わりに、
自分の内側から問いを立てる力を弱めていくのかもしれない。

教育には本来、
すぐには役に立たないものを抱えている時間が
必要なのではないかと思う。

答えの出ない問い。
遠回りする時間。
いまの自分では理解しきれないものに出会うこと。
うまく言葉にならない違和感を、そのまま持っておくこと。

そうしたものも本来、
人が育つということの一部だったはずだ。

人が育つということ

人が育つ、という言い方は、
よく使われる。
けれど、それが何を意味するのかは、
案外あいまいなままなのかもしれない。

知識が増えることなのか。
能力が高まることなのか。
社会で通用することなのか。
自立できるようになることなのか。

どれも間違いではないのだろう。
ただ、それらを並べてもなお、
何かが少し足りない感じが残る。

人が育つというのは、
ただ有能になることではないのかもしれない。
ただ折れにくくなることでもないのかもしれない。
ただ評価されることでもないのかもしれない。

むしろ、
自分が何に違和感を持つのかを知ること。
まだ言葉にならない問いを持てること。
目の前の「当たり前」と少し距離を取れること。
自分とは異なるものに出会っても、
すぐに切り捨てずにいられること。

そうした力もまた、
人が育つということの中に含まれているのではないかと思う。

もしそうだとすれば、
教育とは、
社会に必要な人を育てる場所である前に、
人が自分の問いを持てるようになる場所であってほしい。

その問いは、
すぐに役立たなくてもいい。
むしろ、
すぐに役立たないからこそ、
社会にただ回収されずに残るものがあるのかもしれない。

答えを出すためではなく、問いを残すために

この連載を書き始めたとき、
私は教育について何かを結論づけたいわけではなかった。

ただ、
教育の話の奥で、
社会が人に何を求めているのかが見えてしまった。
その違和感を、そのまま通り過ぎたくなかった。

いまも、
その違和感は消えていない。

けれど同時に、
教育にはまだ、
社会に合うためだけではない何かが残っていてほしいとも思っている。

うまく適応するためだけではなく、
ときに立ち止まるために。
ときに問い直すために。
ときに、
いまある社会とは別の可能性を考えるために。

教育は、
何を育てる場所であってほしいのか。

いまの私に言えるのは、
それがただ、
社会にとって都合のよい人を整える場所であってほしくない、
ということだけなのかもしれない。

人が、
自分の内側に生まれた問いを失わずにいられること。
与えられた価値観に、ただ合うのではなく、
ときにはそれを見直し、
引き受け、
あるいは距離を取ることができること。

教育には、
そうした余白を残していてほしい。

答えは、まだない。
たぶん、これからも簡単には出ないのだと思う。

けれど、
何を育てるのかという問いを持ち続けること自体が、
すでに教育の一部なのかもしれない。

この連載は、
ここで終わる。
ただ、問いは終わらない。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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