責任は、どこで宙に浮くのか:第3回 学校教育活動の移動を、誰が設計するのか

責任は、どこで宙に浮くのか ――部活動バス事故から考える、主体と境界線
第3回 学校教育活動の移動を、誰が設計するのか
前回は、「いつもの手配」がどこで制度の外に出るのかを考えた。
口約束。
継続的な関係。
請求書の確認。
車両と運転者の確認。
費用や手当の扱い。
貸切バスなのか、レンタカーなのかという認識の違い。
それらは、一つひとつを見れば、日常の事務処理に見えるかもしれない。
しかし、生徒を乗せて学校の外へ出るとき、それは単なる事務処理ではない。
学校教育活動の安全を支える設計そのものである。
今回考えたいのは、そこにある。
学校教育活動の移動を、誰が設計するのか。
本稿は、2026年5月22日時点で報道・公表されている内容をもとに、事故の背景にある主体、責任、慣行、制度境界について考えるものである。
刑事上、行政上、民事上の責任を断定するものではない。
また、学校、バス会社、運転者、関係者のいずれかを一方的に断罪するものでもない。
考えたいのは、学校管理下の校外活動において、危険を誰が事前に見つけ、誰が止めるのかという問いである。
部活動の遠征は、試合会場に着いてから始まるわけではない。
集合場所に集まる。
車両に乗る。
高速道路を移動する。
休憩を取る。
現地に到着する。
練習試合を行う。
そして、また帰ってくる。
そのすべてが、学校教育活動の一部である。
試合中のけがには注意が向きやすい。
熱中症、用具、相手校との調整、会場の状況。
こうしたリスクは、比較的想像しやすい。
しかし、移動そのものもまた、重大なリスクを含んでいる。
どの交通手段を使うのか。
誰が運転するのか。
どのルートを通るのか。
どのくらいの距離を移動するのか。
運転時間は長すぎないか。
休憩は十分か。
車両は適切か。
保険はどうなっているのか。
事故が起きたとき、誰に連絡するのか。
これらは、遠征の「付随作業」ではない。
教育活動を安全に成立させるための前提である。
学校によって、移動の形は大きく異なる。
スクールバスを持っている学校もある。
外部の貸切バスを使う学校もある。
公共交通機関を使う学校もある。
レンタカーを利用する場合もある。
顧問や保護者の運転に頼る場合もある。
地域の事業者に、以前からの関係で相談する場合もある。
どれか一つの方法だけが正しい、という話ではない。
地域によって公共交通機関の状況は違う。
学校の規模も違う。
部活動の数も違う。
保護者負担のあり方も違う。
使える車両や人員も違う。
都市部と地方では、移動の現実がまったく異なる。
公共交通機関を使えばよい、と簡単には言えない地域もある。
学校のスクールバスがあっても、行事や部活動が重なれば足りなくなることもある。
外部の貸切バスを手配したくても、費用や台数、運転者不足の問題がある。
だから、現場は何とかしようとする。
顧問が段取りをする。
いつもの事業者に相談する。
保護者に協力を求める。
前年と同じ方法を使う。
過去に問題がなかった手配を繰り返す。
現場の苦労は理解できる。
学校の先生は、交通手配の専門家ではない。
授業、生徒対応、部活動、保護者対応、校務を抱えながら、遠征の準備も担っている。
しかし、だからこそ問わなければならない。
その移動を、顧問個人の段取りとして任せてよいのか。
それとも、学校組織として設計すべきなのか。
ここに、大きな境界線がある。
顧問が日程を調整する。
顧問が相手校と連絡を取る。
顧問が集合時間を決める。
顧問が移動手段を探す。
そこまでは、現実として起こり得る。
しかし、生徒の命を預ける移動手段の安全確認まで、顧問個人の経験や慣れに委ねてよいのだろうか。
車両の種別。
運転者の資格。
事業者の許可。
保険の範囲。
運送引受書や契約書。
緊急連絡先。
天候や道路状況。
移動距離と運転時間。
代替手段の有無。
これらは、顧問の「気をつけます」だけで済むものではない。
学校として確認する。
学校として記録する。
学校として承認する。
学校として止める。
その仕組みがなければ、責任は顧問個人と外部事業者の「あいだ」に落ちてしまう。
そして、事故が起きた後に初めて、こう問われる。
学校は何を確認していたのか。
管理職は知っていたのか。
保護者に説明していたのか。
契約書はあったのか。
誰が最終判断をしたのか。
誰が止める権限を持っていたのか。
本来、それらは事故後に掘り起こされるものではない。
出発前に明らかにされていなければならない。
部活動の移動には、もう一つの難しさがある。
それは、保護者の存在である。
部活動は、学校教育活動でありながら、保護者の協力に支えられている。
送迎、費用負担、応援、備品、合宿、遠征。
保護者の協力がなければ、成り立たない活動も少なくない。
だからこそ、学校は保護者への負担を考える。
できるだけ費用を抑えたい。
できるだけ不便を減らしたい。
できるだけ例年通りに進めたい。
その気持ちは自然である。
しかし、費用を抑えることと、安全を確認することは、対立させてはならない。
安全には費用がかかる。
確認にも時間がかかる。
書面を整えるにも手間がかかる。
適切な事業者を選ぶにも労力がかかる。
代替手段を用意するにも余裕が必要になる。
それらは、無駄なコストではない。
生徒の命を預かるための前提である。
安全コストとは、単に高いバス代を払うことではない。
安全を確認する時間を持つこと。
危ないときに中止できる余白を持つこと。
顧問以外の目を入れること。
保護者に十分説明すること。
記録を残すこと。
そして、慣行を点検すること。
これらすべてが、安全コストである。
地域交通の現実も見落としてはならない。
地域のバス会社は、人口減少、自家用車の普及、運転者不足、車両維持費、観光需要の変動の中で事業を続けている。
学校や地域団体からの依頼は、単なる取引ではない。
地域の関係性の中で生まれる相談でもある。
「何とかできませんか」
「いつものようにお願いします」
「前回と同じ形でお願いします」
そのようなやり取りは、地域社会の中では起こり得る。
地域の事業者も、学校の困り事を何とか支えようとする。
学校も、地域の事業者を信頼して相談する。
そこには、関係がある。
信頼がある。
善意がある。
しかし、信頼は、確認を省く理由にはならない。
善意は、制度の代わりにはならない。
関係が長いからこそ、確認しなければならないことがある。
むしろ、「いつもの相手」だから危ない場合がある。
初めての相手なら、契約書を確認する。
初めての事業者なら、許可や保険を確認する。
初めての手配なら、慎重になる。
けれども、長い関係では、その慎重さが薄れる。
相手も分かっているはずだと思う。
こちらも前回と同じつもりで進める。
書面や確認は、形式的なものに見えてくる。
そのとき、危険は見えにくくなる。
学校教育活動の移動に必要なのは、関係を否定することではない。
地域の事業者との信頼を壊すことでもない。
顧問の努力を疑うことでもない。
保護者の協力を拒むことでもない。
必要なのは、関係を制度の中に置くことである。
どのような移動手段を使うのか。
その移動手段には、どのようなリスクがあるのか。
誰が確認するのか。
誰が承認するのか。
誰が記録するのか。
誰が中止を判断するのか。
この設計を、学校組織として持つことである。
特に大切なのは、止める権限である。
出発前に、確認できないことがある。
車両や運転者に不安がある。
書面が整っていない。
天候や道路状況が悪い。
予定より移動が長くなる。
顧問の体制が不足している。
保護者への説明が十分ではない。
そのとき、誰が「このままでは出発できない」と言えるのか。
顧問が言えるのか。
管理職が言えるのか。
学校法人や設置者が言えるのか。
保護者が疑問を出せるのか。
外部事業者が断れるのか。
危険を見つけるだけでは足りない。
危険を止める仕組みが必要である。
そして、止めることが責められない組織風土が必要である。
「なぜ中止したのか」と責めるのではなく、
「よく止めた」と受け止める。
「例年通りできないのか」と不満を言うのではなく、
「安全確認ができないなら仕方がない」と共有する。
「顧問が何とかすべきだ」と押し返すのではなく、
「学校として判断する」と引き受ける。
この姿勢がなければ、現場はまた無理をする。
学校教育活動の移動は、教育の外側にあるものではない。
教育の一部である。
生徒をどこへ連れていくのか。
何を学ばせるのか。
どのような経験を積ませるのか。
そのために、どのようなリスクを取り、どのようなリスクは取らないのか。
ここまで含めて、教育活動の設計である。
だから、移動は単なる交通手段ではない。
学校が、生徒の命と学びをどう引き受けるのかを映し出す場である。
今回の事故を考えるとき、私たちは「バスの手配がどうだったのか」だけに目を向けてはならない。
もちろん、それは重要である。
契約、車両、運転者、費用、保険、制度の確認は欠かせない。
しかし、その手前にある問いも見なければならない。
その遠征は、学校教育活動としてどう設計されていたのか。
移動のリスクは、誰が把握していたのか。
顧問任せになっていなかったか。
学校組織として承認していたのか。
保護者に十分説明していたのか。
地域事業者との関係を、安全確認の仕組みに乗せていたのか。
これらを問わなければ、同じような危険は別の形で繰り返される。
事故は、突然起きる。
しかし、危険は突然生まれるわけではない。
確認されなかったこと。
記録されなかったこと。
疑問を持たれなかったこと。
止められなかったこと。
前例として流されたこと。
それらが積み重なった先に、危険は現れる。
責任は、事故後に探すものではない。
事故前に配置しておくものである。
誰が確認するのか。
誰が記録するのか。
誰が判断するのか。
誰が止めるのか。
この責任の配置が曖昧なまま、生徒を乗せた車両が出発するとき、責任はすでに宙に浮き始めている。
学校教育活動の移動を、誰が設計するのか。
この問いに答えられないまま、現場の善意と慣行だけで遠征を続けることはできない。
次回は、最終回として、責任の境界線を制度に戻すことを考えたい。
記者会見。
通知。
連絡会議。
再発防止策。
学校組織の点検。
外部事業者との関係。
保護者への説明。
事故の後に社会が発する言葉は、責任の境界線を引き直す作業でもある。
責任は、どこで宙に浮いたのか。
そして、その責任を、どうすれば制度の中に戻せるのか。
この問いを、最後に考えたい。
