警察広報を描くドラマから、広報の本質を考える:第2回 広報は、誰と誰のあいだに立っているのか

警察広報を描くドラマから、広報の本質を考える
第2回 広報は、誰と誰のあいだに立っているのか
前回、私は警察広報を描くドラマを通して、広報が「報道対応」では収まらない仕事であることを書いた。情報を外に出すだけではなく、その前に状況を調整し、組織の内側と外側のあいだに立つ。そこに、広報という仕事の見えにくい重さがあるのではないか。そう考えた。
では、その広報は、いったい誰と誰のあいだに立っているのか。
二者関係では足りない
企業広報はしばしば、組織と報道機関のあいだに立つ仕事として理解される。もちろん、それは間違いではない。企業が何かを発信し、報道機関がそれを受け取り、社会へと流していく。その接点に広報がいる。少なくとも、そう整理することはできる。
だが、今回のドラマを見ていると、その図式だけでは収まらないものが見えてきた。
警察は、一つの組織であると同時に、公共の安全や安心に関わる役割を担っている。そこで扱われる情報は、単なる組織情報ではない。人命や不安、秩序、社会の受け止め方と深く結び付いている。一方、報道機関もまた、個々の企業体でありながら、社会の出来事をどう伝えるかを通して、公共空間に強い影響を及ぼしている。
だからここでは、「一組織と報道機関」という図式だけでは足りないのだと思う。
あえて大胆に整理すれば、そこには国民・報道機関・警察(国)の三者関係が見えてくる。
もちろん、これは便宜的な整理にすぎない。国民と一言で言っても、そのなかには被害者家族もいれば、地域住民もいれば、ただ不安を抱えてニュースを見る人もいる。報道機関もまた一枚岩ではない。警察も同様である。それでもなお、このドラマは、広報という仕事を単なる二者関係ではなく、複数の主体のあいだに置かれた仕事として見せていたように思う。
広報は何を媒介しているのか
ここで広報が媒介しているのは、単なる情報ではない。
何を伝えるのか。
どこまで伝えるのか。
いま伝えるのか、まだ伝えないのか。
誰に向けて、どのような言葉で渡すのか。
そうした判断の背後には、捜査や安全に関わる論理があり、報道の自由や知る権利に関わる視線があり、市民の不安や安心がある。組織としての説明責任もある。つまり広報は、言葉を運んでいるだけではない。異なる立場、異なる責任、異なる公共性のあいだで、言葉が壊れないように受け渡そうとしている。そのような役割として見えてくるのである。
このことは、広報を組織の代弁者としてだけ理解していると、見えにくい。代弁という言葉は、たしかに一面では当たっている。だが広報の仕事は、それほど単純ではない。組織の言葉をそのまま外へ運べばよいわけではないし、外からの要求をそのまま内へ持ち込めばよいわけでもない。そのあいだで、何を受け止め、何を整え、どこまで開くのかを考える。広報とは、そのような摩擦の場所に置かれた仕事でもある。
警察という特殊な事例が照らし返すもの
だからこそ、警察広報を描いたこのドラマは興味深い。そこでは、広報が「報道機関対応の部署」であることはたしかなのだが、それだけでは言い表せない位置に置かれていた。報道機関と向き合っているように見えながら、その先には市民がいる。警察の立場を伝えているように見えながら、その背後には公共の安全という重い責任がある。広報は、その両側を同時に見ながら動いているように映った。
この構図は、そのまま企業広報に重ねられるものではない。警察は公権力を持つ組織であり、その特殊性は大きい。ここを安易に一般化してしまえば、論はすぐに粗くなる。それでも、この特殊な事例を見ていると、企業広報にも返ってくる問いがある。
広報は、本当に組織とメディアのあいだだけを見ていればよいのか。
企業広報においてもまた、実際にはもっと多くの主体との関係を引き受けているにもかかわらず、なお「企業と報道機関」の関係として理解され、語られやすいのではないか。そうだとすれば、広報の役割は、私たちが思っている以上に狭く見積もられてきたのかもしれない。
広報を、関係の構造から見直す
今回のドラマを見て、私が強く感じたのはそのことだった。広報とは、単に組織と報道機関の接点に立つ仕事ではない。もっと複数の主体のあいだで、異なる論理や責任を受け止める位置に置かれている。そのことが、警察という特殊な現場を通して、かえってはっきり見えてきたのである。
もし広報が、そのように複数主体のあいだに立つ仕事なのだとしたら、次に問われるのは、何をどう伝えるのかということである。
どこまで開くのか。
何を今は言わないのか。
その判断は、どこで分かれていくのか。
次は、そのことを考えてみたい。
