#24 「不正会計と企業統治」第7回 企業は誰のものなのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
不正会計と企業統治 ―成長の論理と統治の論理は、なぜ衝突するのか
第7回 企業は誰のものなのか
名経営者とは何か。
前回、その問いについて考えました。
企業を成長させる力。
結果を出す力。
組織を前に進める力。
それらは確かに経営者に求められる力です。
しかし同時に、企業を健全に導くためには、止まる力、問い直す力、違和感を受け取る力も必要です。
では、そもそも経営者が導いている企業とは、誰のものなのでしょうか。
この問いは、昔から繰り返し議論されてきました。
株主のものなのか。
社員のものなのか。
顧客のものなのか。
社会のものなのか。
一見すると、理念的な問いに見えます。
しかし、不正会計や企業統治を考えていると、この問いは決して抽象論ではありません。
企業が苦しい判断を迫られたとき、
誰の利益を守ろうとするのか。
誰に説明しようとするのか。
誰の痛みを見落としてしまうのか。
そこに、企業の本当の姿勢が表れるからです。
株主のもの、という答え
企業は株主のものだ。
この考え方には、分かりやすさがあります。
株主は資本を出し、リスクを負います。
企業価値が高まれば利益を得る一方で、価値が下がれば損失も引き受けます。
だから企業は株主に対して説明責任を負う。
これは重要な考え方です。
経営者が好き勝手に会社を動かしてよいわけではありません。
資本を預かっている以上、経営者には説明責任があります。
企業統治も、もともとは経営者の暴走を防ぎ、株主の利益を守る仕組みとして整えられてきた側面があります。
しかし、ここで立ち止まりたくなります。
企業は本当に、株主だけのものなのでしょうか。
株主に説明できれば、それで企業の責任は果たされたことになるのでしょうか。
企業は、関係の上に立っている
企業は、資本だけで成り立っているわけではありません。
商品をつくる人がいる。
サービスを届ける人がいる。
仕入れ先がいる。
取引先がいる。
顧客がいる。
地域がある。
社会の制度がある。
それらの関係の上に、企業活動は成り立っています。
売上も利益も、単独で生まれるものではありません。
誰かが働き、誰かが買い、誰かが支え、誰かが信頼し、誰かが待っている。
その関係の中で、企業は初めて動くことができます。
だとすれば、企業を「誰のものか」と一つの所有関係だけで捉えることには限界があります。
企業は、株式の所有という意味では株主と深く結びついています。
しかし、企業活動そのものは、もっと多くの人との関係の中で成立しています。
ここを見落とすと、企業統治は狭くなります。
株主への説明。
投資家への説明。
市場への説明。
それらは必要です。
しかし、それだけでは企業の全体を見たことにはならないのではないでしょうか。
誰のために数字を整えるのか
不正会計を考えると、この問いはさらに重くなります。
数字をよく見せたい。
損失を先送りしたい。
市場を失望させたくない。
株価を守りたい。
こうした判断は、表面的には「会社のため」に見えることがあります。
しかし、その「会社」とは誰を指しているのでしょうか。
株主でしょうか。
経営者でしょうか。
社員でしょうか。
顧客でしょうか。
取引先でしょうか。
「会社のため」という言葉は、とても強い言葉です。
けれども、その中身が曖昧なまま使われると、都合のよい判断を正当化する言葉にもなります。
会社のために、いまは出せない。
会社のために、ここは調整する。
会社のために、問題を大きくしない。
そうした言葉の中で、誰かの痛みや違和感が外へ押し出されていくことがあります。
本当に会社のためなのか。
それとも、特定の評価や数字を守るためなのか。
ここを曖昧にしたままでは、企業の判断は少しずつ歪んでいきます。
企業を守るとは、何を守ることか
企業を守る。
これも、よく使われる言葉です。
経営者も、社員も、ときにこの言葉を使います。
企業を守るために、厳しい判断をする。
企業を守るために、外に出す情報を慎重に扱う。
企業を守るために、いまは耐える。
もちろん、企業を守ることは大切です。
企業がなくなれば、働く場も、商品やサービスも、取引も、地域への貢献も失われます。
しかし、企業を守るとは何を守ることなのでしょうか。
名前を守ること。
株価を守ること。
短期の利益を守ること。
経営者の評価を守ること。
もし、それらを守るために、現場の違和感や、取引先への無理や、顧客への説明責任が犠牲になるなら、それは本当に企業を守っていると言えるのでしょうか。
企業を守るとは、本来、企業が企業として信頼され続けるための土台を守ることではないか。
そう考えると、守るべきものは少し変わって見えてきます。
数字だけではない。
評判だけでもない。
一時的な市場評価だけでもない。
判断の誠実さ。
関係への責任。
説明できる経営。
間違ったときに戻れる構造。
そうしたものこそ、企業を長く支える土台なのではないでしょうか。
所有ではなく、責任として考える
企業は誰のものなのか。
この問いに、単純な答えを出すことはできません。
法的な所有の問題として見れば、株主の存在は極めて重要です。
しかし、企業活動の現実を見れば、企業は多くの関係の中で成り立っています。
だから私は、この問いを少し言い換えた方がよいのではないかと思います。
企業は誰のものなのか。
ではなく、
企業は誰に対して責任を負っているのか。
そう問い直すと、見えるものが変わります。
株主への責任。
社員への責任。
顧客への責任。
取引先への責任。
地域への責任。
社会への責任。
もちろん、すべてを同じ重さで扱うことはできません。
経営には優先順位があります。
厳しい判断も必要です。
しかし、優先順位をつけることと、存在を見えなくすることは違います。
誰かを優先する判断をしたとしても、別の誰かに負担が生じているなら、そのことを見なければなりません。
企業の責任とは、すべての人を等しく満足させることではない。
むしろ、誰にどのような影響を与えているのかを見失わないことではないでしょうか。
企業統治は、所有の問題だけではない
企業統治を、株主と経営者の関係だけで捉えると、見えにくくなるものがあります。
企業の判断が、社員にどう影響するのか。
取引先にどのような無理を求めているのか。
顧客に何を説明しているのか。
社会にどのような負担を残しているのか。
これらは、単なる周辺問題ではありません。
企業がどのように判断しているのかを知るための重要な手がかりです。
不正会計は、数字の問題として表に出ます。
しかし、その手前には、誰に対する責任を重く見て、誰に対する責任を軽く見たのかという判断があります。
市場に対する説明を優先したのか。
株価への影響を恐れたのか。
現場の違和感を後回しにしたのか。
取引先への無理を見えないものとして扱ったのか。
そこを見なければ、不正の本質には近づけません。
企業統治とは、経営者を監視する制度であるだけではない。
企業が誰に対して責任を負っているのかを、判断の中で見失わないための仕組みでもあるのだと思います。
企業は、誰の責任で動くのか
企業は誰のものなのか。
この問いは、最後には別の問いへつながっていきます。
企業は、誰の責任で動くのか。
経営者だけの責任なのか。
取締役会の責任なのか。
株主の責任なのか。
社員の責任なのか。
社会の責任なのか。
おそらく、どれか一つではありません。
企業は、多くの責任が重なり合う場所です。
経営者は判断の責任を負う。
取締役会は監督の責任を負う。
社員は現場の違和感を見過ごさない責任を負う。
株主や市場は、何を評価するのかという責任を負う。
取引先や顧客や社会もまた、企業とどのような関係を結ぶのかという責任を持っている。
だからこそ、企業統治は難しい。
責任が一カ所に集まるわけではないからです。
しかし、だからといって責任が曖昧になってよいわけではありません。
むしろ、責任が重なり合うからこそ、判断の履歴を残し、説明し、問い直す仕組みが必要になる。
企業は誰のものなのか。
その問いに、私はまだ一つの答えを出せません。
ただ、少なくとも言えることがあります。
企業は、誰か一人のものではない。
企業は、数字だけのものでもない。
企業は、関係の中で動き、関係の中で評価され、関係の中で責任を問われる存在です。
だからこそ、企業統治は、所有の問題だけでは足りない。
責任の問題として、もう一度考え直す必要があるのだと思います。
次回は、ここまでの議論を踏まえ、企業の判断はどのように記録され、問い直されるべきなのかについて考えてみたいと思います。
評論としてではなく、私自身の迷いと判断の履歴として、ここに残していこうと思います。
