感情は、どのように組織の判断になるのか:第1回 感情に名前を付けるとは、どういうことか

感情は、どのように組織の判断になるのか

第1回 感情に名前を付けるとは、どういうことか

相手が強い怒りを示している。

大きな声で不満を訴え、こちらの説明を遮り、同じ主張を繰り返している。

このような場面に直面すると、私たちはすぐに説明しようとします。事実を伝え、誤解を解き、相手を納得させようとするからです。

しかし、相手の感情が大きく揺れているとき、正しい説明がそのまま届くとは限りません。

むしろ、説明を重ねるほど、相手は「自分の話を聞いてもらえていない」と感じ、感情をさらに強めることがあります。

では、説明や説得の前に、何が必要なのでしょうか。

「説得しない」という交渉術

2026年7月、NPO法人日本リスクマネジャー&コンサルタント協会が開催したオープンセミナーで、株式会社kibi代表取締役の榎本澄雄氏が「元刑事の『説得しない』交渉術」をテーマに講演しました。

榎本氏は、元警視庁警部補として刑事事件に携わった経験を持ちます。講演では、警察の交渉現場だけでなく、苦情対応、営業、仲裁などに共通する対話の技術が紹介されました。

その中で、私の印象に強く残ったのが、「感情にラベルを貼る」という考え方です。

「怒っているようですね」

「とてもお急ぎのご様子ですね」

「大切に扱われなかったと感じていらっしゃるようですね」

相手の感情を、こちらが言葉にして差し出します。

ただし、ここでいうラベル付けは、相手を「怒りっぽい人」「扱いにくい人」と分類することではありません。

相手の内側で起きていることに、仮の言葉を置いてみる行為です。

正しく言い当てることが目的ではない

感情は、外から完全に見えるものではありません。

大きな声の奥にあるのは、怒りとは限りません。

不安かもしれません。恐怖かもしれません。自分が軽く扱われたという悲しさや、事態を制御できない焦りかもしれません。

だからこそ、「あなたは怒っています」と断定するのではなく、「怒りを感じているように見えます」と、こちらの理解を仮説として差し出します。

仮説であれば、相手は修正できます。

「怒っているのではない。困っているんです」

「急いでいるのではなく、この先どうなるか不安なんです」

「金額の問題ではない。説明がなかったことが納得できないんです」

こちらの言葉が正確でなかったとしても、相手が訂正することで、それまで見えていなかった感情や事情が表に出てきます。

大切なのは、正解を当てることではありません。

相手の状態に関心を向けていることを、言葉として示すことです。

感情に名前が付くと、対話が始まる

強い感情の中にいるとき、人は自分が何に反応しているのかを、必ずしも整理できているわけではありません。

「とにかく納得できない」

「何とかしてほしい」

「責任者を出してほしい」

本人にも、怒りの奥にある不安や失望が見えていないことがあります。

そこに仮の言葉が置かれると、感情を少し離れた場所から見られるようになります。

「自分は怒っていると思っていたが、本当は不安だったのかもしれない」

「商品そのものより、説明されなかったことに傷ついていたのかもしれない」

感情が言葉になれば、何について話すべきなのかが見えてきます。

感情を消すのではありません。

まだ形を持っていなかった感情を、対話できる状態へと整えるのです。

感情への応答は、同意ではない

ここで、重要な区別があります。

相手の感情を言葉にすることは、相手の主張に同意することではありません。

「不安を感じているようですね」と伝えることと、相手の要求を全て受け入れることは別です。

「大切に扱われなかったと感じたのですね」と応答することと、会社側の過失や法的責任を認めることも同じではありません。

感情は、まず感情として受け止める。

事実は、確認して判断する。

要求は、公正な基準に基づいて回答する。

この三つを混ぜないことが、対話を続けながら境界線を守るために欠かせません。

感情への応答を避ければ、相手は自分の状態を理解してもらうために、さらに強い言葉を使うかもしれません。

一方で、感情に応答したことを理由に要求まで受け入れれば、現場の担当者も組織も守れません。

感情を受け止めることと、不当な要求に応じないことは、両立できます。

感情を、組織が受け取れる形へ

感情のラベル付けは、目の前の相手を落ち着かせるためだけの技術なのでしょうか。

私は、もう一つの意味があると考えています。

相手の感情が言葉になることで、それまで担当者だけが感じ取っていたものを、組織の中で共有できるようになります。

「顧客が怒っていた」という記録だけでは、その背景は分かりません。

しかし、

「説明を受けていないと感じ、不安を強めていた」

「自分の話を軽く扱われたことへの失望があった」

「将来の見通しが示されず、状況を制御できないと感じていた」

と記録されれば、組織が考えるべきことが見えてきます。

説明の仕方に問題があったのか。

担当者への情報共有が不足していたのか。

商品やサービスの設計に、同じ感情を生み出す原因があるのか。

感情は、個人の胸の内だけにあるものではありません。

組織との関わりの中で生まれた感情には、組織が見直すべき判断や行動が映っていることがあります。

感情に名前を付けることは、その感情を組織が応答できる情報へと変える、最初の一歩なのかもしれません。

誰が聞き、誰が判断するのか

ただし、現場の担当者が感情を受け止め、言葉にし、記録し、対応方針まで決めるとすれば、一人にかかる負担はあまりにも大きくなります。

聞くことと、決めることは同じではありません。

相手との対話を続けることと、組織として要求を受け入れるかどうかを判断することも別です。

感情を言葉にした後、その情報を誰が受け取り、誰が記録し、誰が判断するのか。

榎本氏の講演では、この問いにつながる「3人の法則」も示されました。

現場の応答を個人の技量だけに委ねず、組織の役割分担へつなげていく考え方です。

次回は、感情に応答することと、相手の要求を受け入れることの違いを、さらに考えていきます。


関連情報

榎本澄雄氏の『元刑事の「説得しない」交渉術』は、相手を言い負かしたり、こちらの結論へ誘導したりする方法を学ぶものではありません。

感情が高ぶり、通常の説明が届きにくい場面で、相手の状態をどう捉え、どのように話を聞き、対話を続けるかを具体的に学ぶ内容です。

苦情対応を担当するかただけでなく、顧客、社員、取引先など、立場の異なる相手との対話を担う経営者や管理職にも、多くの示唆があります。


出典表記

本稿は、榎本澄雄氏によるRMCAオープンセミナー「元刑事の『説得しない』交渉術」および、同氏から提供を受けた講演資料をもとに、筆者の考察を加えて執筆しています。

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