中級講座 Ⅰ.理論・基礎知識 広報・PRの歴史 日本における誕生と歴史(1)

こんにちは。荒木洋二です。
今回も「広報・PRの歴史」について解説します。

参考文献は、次の2冊です。

・『日本の広報・PR100年』(猪狩誠也編著、同友館刊)
・『企業の発展と広報戦略』(経済広報センター監修、猪狩誠也編、日経BP企画刊)

『日本の広報・PR100年』は、2011年の出版です。300ページくらいあり、日本広報の100年間を振り返っています。
『企業の発展と広報戦略』は、1998年の出版です。こちらも300ページくらいあり、同書の方が企業の広報については、詳しく書かれているが部分あります。
いずれも非常に詳しく書かれていますので、日本の広報・PRの歴史に関心がある人は、ぜひ購入して、ご自身で一度読んでみてください。

前回までは、「1 米国における誕生と歴史」について確認しました。今回からは、「2 日本における誕生と歴史」についてです。

日本における誕生と歴史は、次の五つに分けて解説します下図参照

①満鉄による多彩な弘報活動

当時、「弘報」という言葉が使われていました。「弘文」の意味は、学問を広めることです。「弘法」となった場合は、仏法を世に広めることです。当時の「弘報」という言葉は、何かを広く伝えるという漠然としたものではなく、ある主義・主張を伝える、という意味で使われていました。

20世紀初頭の日本で、政府や中央官庁において、パブリック・リレーションズはどう扱われていたのでしょうか。
当時、内閣情報局という部局がありました。その当時の「情報」という用語は、今で言う、「インテリジェンス」とは少し意味合いが違います。単なる「情報」ですし、宣伝のような意味合いでの使い方でした。「渉外」は、パブリック・リレーションズの訳として使われていました。

1923年、南満州鉄道(満鉄)が設置した弘報係。これが日本企業最初の広報組織だった、と言われています。満鉄は、(現在の中国の)満州にありました。社内と社外、いずれにおいても、自らの存在の正当性を知らしめる必要性に迫られていました。

置かれた状況は違いましたが、米国も鉄道会社が近代的PRの幕開けを担ったのと同様に、日本においても鉄道会社がPRの誕生に関わっていたということです。産業の発達から考えると、驚くことではなく当然なのでしょうが一致しています。

満鉄の社員会向け機関誌『協和』は、1935年7月に発行されました。機関誌とは、今でいう社内報です。同誌で「弘報係とは」と題して、その役割が記載されていました。なかなか面白い内容で、分かりやすく図解で説明していました下図参照

同誌では「宣伝」と記載されていますが、本質を見れば「広報」と同じ意味合いであるといえるでしょう。

・文章宣伝

文章を書く、文字で伝えるということです。

・形影宣伝

これは写真や映像です。あるいは映画を活用して、満鉄自身の正当性を伝えていこうと考えていました。

・口授宣伝

これは「口で授ける」ですから、セミナー・講演会、あるいはラジオで伝えました。

文章・写真・映像・口頭など、さまざまな表現方法や媒体を駆使して、社会に対して情報を発信していくことが、弘報係の役割であると記されていました。情報の伝達経路を分析し、表現や手法を組み合わせて、情報発信する。弘報係とはかくあるべきだとの主張でした。

日本でも満鉄という鉄道会社が、企業の広報PRの始まりに関わっていたということです。

②パブリックリレーションズの導入

満鉄の時代、1920〜30年頃は、まだ広報の「広」の部分が「弘」でした。
次にパブリック・リレーションズが日本に本格的に導入されたのは、1947年のことだったと言われています。
主導したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)です。GHQが日本に拠点を構え、日本に民主主義を広めるために、官庁や全国の自治体にPRオフィス、パブリック・リレーションズ・オフィスを設置しました。国民、住民の声に耳を傾けよう、行政の声を国民、住民に伝えよう、ということです。
当初は「公聴会」を開催し、住民の声を傾聴するための集まりがあったようです。それだけでなく、都道府県や各基礎自治体がそれぞれ広報紙を発行し、市民、住民に配布しました。実は現在でも、規模の大小問わず、ほぼ全ての基礎自治体で必ず広報紙を発行しています。

私自身は神奈川県横浜市に住んでいますが、神奈川県も広報誌を発行しています。横浜市も発行しています。私の出身は静岡県下田市でして、現在人口が2万人程度の非常に小さな市です。しかし、私が居住していた40年近く前、人口が3万人のころも、現在も『広報しもだ』という広報紙が発行され、全世帯に配布されています。皆さんのご自身の故郷や、現在の居住地域の広報誌を確認してみてください。

パブリック・リレーションズは双方向なので、広く報せる「広報」と、広く聴く「広聴」の両方で成り立ちます。
ほぼ全ての自治体には「広報課」あるいは「広報・広聴課」が設置されています。なぜか。それは、実はGHQがPRオフィスを設置させたからなのです。このような経緯もあり、日本ではパブリック・リレーションズを「広報」と訳したといわれています。中国ではそのまま「公共関係」と訳したのですが、日本では「広報」と訳しました。

行政に広報、パブリック・リレーションズが普及していったのは、GHQが関わっていました。

企業社会では、どうやってパブリック・リレーションズ、広報が導入されていったのか。ここでもGHQが大きく関わっています。すでに述べた満鉄も非常に大きく関わっています。

まず、満鉄に所属し、満州国での広報に携わっていた関係者たちがいました。彼ら優秀な人材が入社したのが、広告代理店の電通でした。意外なことと思われるかもしれませんが、電通が日本の企業社会にPRを導入したきっかけをつくりました。

今でこそ広告代理店は社会的地位もあります。一時期、学生からの就職先として人気もありましたし、現在は社会に対して相当な影響力を持っています。ただ、当時は「広告屋」と言われ、職業として下に見られ、揶揄されるような存在でした。そんな社会的背景から広報、パブリック・リレーションズの必要性を感じていました。

当時の電通は、中興の祖と言われた吉田秀雄氏が陣頭指揮を取っていました。若い人はあまり知らないかもしれませんが、吉田氏の「鬼十則」は40〜50代以上の人たちには有名でした。かなり厳しい言葉が並んでいます。
今では「パワハラ」と言われるかもしれません。ただ、言葉は厳しいのですが、ビジネスパーソンはそれぐらい本気で仕事に取り組むべきだ、という意味であったと理解できます。電通以外の人たちにも知れ渡り、信奉するビジネスパーソンは少なくなかったでしょう。自分自身を鼓舞する、仕事に向かう姿勢を正すものとして、暗唱できる人もいたほどでした。

その吉田氏と同期で、田中寛次郎という人がいました。彼こそ、日本企業社会への広報・PRの導入に貢献した重要な人物でした。

電通は、いつ広報・PRに取り組んだのか。
それは1946年2月、終戦後間もない頃です。基本方針として「PRの導入と普及」という方針を打ち出していました。

では、GHQは日本企業社会にどう影響を与えたのか。GHQにはPRに関するさまざまな関係書類がありました。これらの書類を田中寛次郎さんはGHQで懇意にしていた人物から譲り受けました。彼は非常に多くの書類を熟読し、その真髄を理解していったと言われています。今まで見たきたように、企業社会での導入に(GHQを背景に)電通が大きく関わっていました。

ここで少々、田中寛次郎さんの人物像を簡単に紹介します。一旦、電通を辞めて、国家機関に所属し、政府関係の仕事をしていました。終戦後、吉田秀雄さんに呼び戻されて、電通に戻り、そしてPRを担当します。ただ、非常に若くして亡くなってしまったそうです。1949年7月、彼が電通で「夏季広告講習会」を開催しました。その時に講演で話した内容が、今でも色あせない、パブリック・リレーションズの本質を突いたメッセージでした。参考文献として紹介した書籍『企業の発展と広報戦略』に掲載されていますので、ここで重要な部分の文章を(長いのですが)紹介します下図参照

いかがでしょうか。非常に奥深い内容です。今でも十分に通用しますし、一切色あせておらず、PRの最も重要な本質を突いています。

前の記事へ 次の記事へ