#18 「教育と資本主義のあいだ」第4回 学びは、適応のためだけにあるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

教育と資本主義のあいだ

第4回 学びは、適応のためだけにあるのか 社会に出る準備としての教育、その先に残るもの

学びは、社会に出るために必要だと言われる。
そのこと自体を否定するつもりはない。
けれど、学ぶことが社会に合うための準備として語られるたびに、
その先にあったはずの何かが、少しずつ見えなくなっていく気がする。

役に立つ学び、という言葉の中で

学びは役に立つほうがいい。
社会に出て困らないほうがいい。
変化に対応できる力を持っていたほうがいい。

そう言われれば、たしかにその通りだと思う。

どんな時代であっても、
生きていくための力は必要なのだろう。
仕事をすること。
人と関わること。
自分で考えて動くこと。
社会の中で居場所を見つけていくこと。

その意味で、
学びが社会と無関係であるはずはない。

むしろ、
まったく役に立たないことだけを教える教育があるとしたら、
それもどこか無責任なのかもしれない。

私は、その現実を否定したいわけではない。

けれど、
学びが「役に立つもの」として語られる場面が増えるほど、
少しだけ引っかかる感覚が残る。

その言葉は、
いつのまにか
「社会に合う人になること」と
ほとんど同じ意味になっていないだろうか。

社会で通用すること。
変化に遅れないこと。
求められる力を身につけること。
必要とされる人になること。

そうした方向に学びが寄っていくとき、
たしかに現実には近づいているのだろう。
けれど同時に、
学びの輪郭そのものが少しずつ細くなっていく気もする。

適応という言葉の静かな強さ

適応という言葉は、
正面から人を傷つける言葉ではない。

努力しろ。
勝て。
従え。
そういう強い命令のようには聞こえない。
むしろ自然で、前向きで、現実的な言葉に見える。

だからこそ、
その言葉は静かに浸透していく。

社会は変わる。
時代は速い。
先は見えにくい。
だから対応できる人になろう。
しなやかに変われる人になろう。
学び続けられる人になろう。

その一つひとつは、
間違っていないのだと思う。

けれど、
それが重なっていくと、
学ぶことはいつのまにか
「変化の速い社会に遅れずについていくための準備」
として語られ始める。

そこで問われているのは、
何を知るかだけではない。
どう考えるかだけでもない。

どこまで折れずにいられるか。
どこまで柔軟でいられるか。
どこまで環境に合わせて自分を整えられるか。

そこまで来ると、
学びとは何かという問いは、
少しずつ別のものに置き換わっていく。

学びとは、
自分を広げていくことなのか。
それとも、
社会に合う自分へと整えていくことなのか。

私は、その境目が少し気になっている。

学びの中に残っていてほしいもの

たぶん学びにはもともと、
もっと遠回りのようなものが含まれていたのではないかと思う。

すぐには使えないこと。
答えが出ないこと。
役立つかどうかわからないまま考えること。
立ち止まること。
いまの自分のままでは理解できないものに出会うこと。

そうしたものも本来、
学びの一部だったはずだ。

けれど、
学びがあまりに社会への準備として語られるようになると、
そうした時間は少しずつ押しやられていく。

すぐ役に立つか。
将来の成果につながるか。
市場で価値になるか。
社会で通用するか。

その問いに晒され続けると、
学びはどうしても痩せていく。

私はここで、
「役に立つことは悪い」と言いたいわけではない。
社会と接続する学びを否定したいわけでもない。

ただ、
学びが社会に合うためだけのものになるとき、
人は環境になじむ力を得る代わりに、
環境そのものを問い返す力を失っていくのではないかと思う。

与えられた条件にうまくなじむこと。
その中で結果を出すこと。
評価されること。
必要とされること。

それらはたしかに大切なのだろう。
けれど、
学びが本来持っていたはずの別の働き――
疑うこと。
ずれてみること。
まだ名前のないものに触れること。
そうした力まで弱くなっていくのだとしたら、
それは少し寂しい。

学びは、
社会に出るためだけのものなのだろうか。

それとも、
社会に出たあともなお、
社会そのものを見直し、
ときには距離を取り、
別の可能性を考えるためのものでもあるのだろうか。

私はまだ、
きれいな答えを持っていない。

ただ、
学びが社会に合うための準備としてだけ語られるとき、
人は、社会に合う力を身につけていくのかもしれない。
けれどそのぶん、
社会の外側から考える余白は、
少しずつ狭くなっていくのではないかと思う。

学びは、適応のためだけにあるのか。

この問いの奥には、
教育の話だけではなく、
社会が人に何を求めているのかという問いが、
やはり静かに横たわっている。

そしてその問いは、
最後にもう一度、
教育とは何を育てる場所であってほしいのか、
というところへ戻っていくのだと思う。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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