#23 「責任の境界線」第7回 制度だけで、未来は支えられるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計

第7回 制度だけで、未来は支えられるのか

第6回で、私は「制度は、未来をどう織り込めるのか」と問うた。

制度は、社会を動かすために必要な仕組みである。
分別ルール。
回収日。
処理施設。
予算。
行政計画。

それらがなければ、
日々の暮らしも、地域の環境も、
きっと混乱してしまう。

けれど同時に、
制度は責任の境界線を引くものでもある。

ここまでが家庭の責任。
ここからは自治体の責任。
ここまでは企業の責任。
ここから先は別の制度の領域。

そうして責任は整理される。

だが、整理された責任は、
本当に未来まで届いているのだろうか。


制度は、行動を整える

制度は、行動を整える。

どの日に出すのか。
何を分けるのか。
どこへ持っていくのか。
どのように処理するのか。

それが明確になることで、
人は迷わずに動ける。

この意味で、制度はとても大切だ。

責任をあいまいなままにせず、
社会の中で扱えるかたちにしてくれる。

だが、その一方で、
制度が整えば整うほど、
私たちは安心してしまうこともある。

ルール通りに分けた。
決められた日に出した。
指定された場所に持っていった。

だから、ここから先は自分の責任ではない。

そう感じた瞬間、
責任は制度の内側で完結する。


正しく従うことと、引き受けること

制度に従うことは、もちろん必要だ。

ルールを無視してよい、という話ではない。
むしろ、制度に従うことで
社会全体の秩序は保たれている。

しかし、
制度に従うことと、
責任を引き受けることは、
まったく同じなのだろうか。

ここに、少し考えたい余白がある。

正しく分別する。
正しく捨てる。
正しく回収に出す。

それは大切な行動である。

けれど、
その先で何が起きているのかを考えなくても、
制度の上では「正しい」とされることがある。

正しさが、
問いを止めてしまうこともある。


制度の外側にあるもの

制度は、見えるものを扱いやすい。

量。
分類。
費用。
回収率。
処理能力。

こうしたものは、制度に組み込みやすい。

一方で、
制度が扱いにくいものもある。

ためらい。
違和感。
もったいなさ。
手放す前に考える時間。
誰かに渡せるかもしれないという想像。

それらは数値にしにくい。
計画にも入れにくい。
制度の言葉では、うまく扱いきれない。

けれど、
ごみが出る前のところで働くのは、
むしろそうした感覚なのではないか。

まだ使えるかもしれない。
直せるかもしれない。
誰かに渡せるかもしれない。
そもそも買わなくてもよかったかもしれない。

この小さな立ち止まりは、
制度だけでは生まれにくい。


関係が、責任を少し広げる

第4回で、私は
「主体と主体のあいだに、何があるのか」と問うた。

その問いは、ここにも戻ってくる。

家庭と自治体のあいだ。
企業と消費者のあいだ。
地域と生活者のあいだ。

そこに関係が生まれると、
責任の見え方は少し変わる。

たとえば、
ただ捨てるだけだったものが、
誰かに渡るかもしれないものとして見える。
ただ回収されるだけだったものが、
地域の中で循環するものとして見える。
ただ処理されるだけだったものが、
次の使い道を持つものとして見える。

それは、大きな制度変更ではないかもしれない。

けれど、
主体と主体のあいだに関係が生まれることで、
責任は少しだけ先へ伸びる。


習慣は、制度より静かに働く

制度は明文化される。
だが、習慣は暮らしの中にしみ込む。

家での分け方。
地域での声のかけ方。
店での選び方。
使い終えたものへの向き合い方。

こうした習慣は、
一つひとつを見ると小さい。

だが、
長い時間の中では、
制度よりも深く人の行動を支えていることがある。

何を当たり前と感じるのか。
何を面倒だと感じるのか。
何を恥ずかしいと思うのか。
何を大切にしたいと思うのか。

そこには、制度だけでは届かない
文化のようなものがある。


文化という言葉を、少しだけ使ってみる

文化という言葉は、
少し大きすぎるかもしれない。

だから、ここでは慎重に使いたい。

文化とは、
立派な伝統や芸術のことだけではなく、
日々の行動を静かに方向づけているものでもあるのだと思う。

捨てる前に、一度考える。
使えるものを、すぐに不要と見なさない。
自分の外側に出たものにも、少しだけ目を向ける。
未来に残るものを、完全には他人事にしない。

そうした感覚が、
暮らしの中に少しずつ積み重なる。

もしそれを文化と呼べるのなら、
未来を支えるのは制度だけではない。

制度と関係。
制度と習慣。
制度と文化。

そのあいだに、
まだ見えていない責任の形があるのかもしれない。


制度だけでは足りない、という断定ではなく

ここで、簡単に
「制度だけでは足りない」と言い切ることもできる。

しかし、それでは少し早い気がしている。

制度は必要だ。
関係も必要だ。
習慣も必要だ。

だが、それらがどうつながればよいのかは、
まだ簡単には言えない。

制度が弱ければ、
善意だけに頼ることになる。

関係がなければ、
制度は冷たいルールに見える。

習慣が育たなければ、
制度は一時的な対応で終わってしまう。

それぞれが必要で、
それぞれに限界がある。

だからこそ、
私はいま、
制度の外側を見るというより、
制度と制度ではないもののあいだを見たいと思っている。


まだ、答えは出ていない

環境問題を考えることは、
ごみの処理方法を考えることだけではなかった。

3Rをどう並べるか。
責任をどこで区切るか。
主体と主体のあいだに何があるのか。
未来を誰の責任として残すのか。
制度は未来をどう織り込めるのか。

ここまで来て、
問いはさらに静かに広がっている。

制度だけで、未来は支えられるのか。

おそらく、
制度だけではなく、
人の関係や日々の習慣も必要なのだろう。

けれど、
それを「一人ひとりの意識の問題」に戻してしまうと、
また別の境界線を引いてしまう気もしている。

未来を支えるものは、
制度なのか。
関係なのか。
習慣なのか。
文化なのか。

あるいは、
それらが重なり合う場所に、
まだ名前のない責任の形があるのか。

いまはまだ、
その問いを開いたままにしておきたい。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

前の記事へ TOPへ