#25 「責任の境界線」第8回 「一人ひとりの意識」で、終わらせてよいのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計

第8回 「一人ひとりの意識」で、終わらせてよいのか

第7回で、私は「制度だけで、未来は支えられるのか」と問うた。

制度は必要である。
けれど、制度だけですべてが変わるわけではない。

人と人との関係。
日々の習慣。
暮らしの中に積み重なる文化。

そうしたものもまた、
私たちの行動を静かに方向づけている。

だが、ここで一つ気になることがある。

制度だけでは足りないと考えた途端、
私たちは問題を
「一人ひとりの意識」に戻してしまうことがある。

環境を大切にしよう。
ごみを減らそう。
正しく分別しよう。
未来のことを考えよう。

どれも間違ってはいない。

それでも、
本当にそこで終わらせてよいのだろうか。

意識は、たしかに行動を変える

人の意識は、行動に影響する。

必要以上に買わない。
使えるものを長く使う。
捨てる前に別の使い道を考える。
過剰な包装の商品を避ける。

一つひとつは、小さな選択である。

だが、多くの人が同じ方向を向けば、
企業のものづくりや、
地域の仕組みを変える力になることもある。

だから、
一人ひとりの意識が大切ではない、
という話ではない。

むしろ、意識がなければ
制度も関係も動き始めないことがある。

ただし、
意識だけでは動けない場面もある。

選びたくても、選べないことがある

ごみを減らしたいと思っていても、
商品はすでに包装されている。

長く使いたいと思っていても、
修理するより買い替える方が安いことがある。

環境への負荷が少ない商品を選びたくても、
価格や販売場所によっては
手に取ることが難しい。

忙しい暮らしの中では、
手間のかかる選択を続けられないこともある。

意識がないから選ばないのではなく、
選びたくても選べない。

あるいは、
どちらを選べばよいのか分からない。

私たちの選択は、
意識だけで決まっているわけではない。

価格。
時間。
情報。
商品のつくられ方。
売り場の並び方。
回収する場所。
地域の制度。

そうした条件の中で、
私たちは選んでいる。

選択肢は、誰かによってつくられている

私たちは、自分で選んでいると思っている。

何を買うのか。
何を使うのか。
何を捨てるのか。

けれど、その前には
すでに用意された選択肢がある。

容器に入った商品。
修理できない製品。
使い切ったあとの行き先が示されていない素材。
便利さを中心につくられたサービス。

私たちは、
何もないところから選んでいるのではない。

誰かが設計した選択肢の中から、
自分にとって可能なものを選んでいる。

そう考えると、
選ぶ人の責任だけでなく、
選択肢をつくる側の責任も見えてくる。

責任の境界線が、個人へ戻ってくる

環境問題を語るとき、
「一人ひとりができることから」という言葉をよく耳にする。

この言葉には、人を動かす力がある。

大きすぎる問題を、
自分の暮らしに引き寄せることができるからだ。

だが同時に、
少し気をつけなければならないとも思う。

問題の最後にこの言葉が置かれると、
制度や企業や社会の責任が、
個人の行動へと戻されてしまうことがある。

分別しなかった人。
買いすぎた人。
捨てすぎた人。
関心を持たなかった人。

そうして、
個人の意識の低さが
問題の原因として見えるようになる。

しかし、第4回から見てきたように、
主体は一つではない。

個人も、企業も、自治体も、国も、
それぞれが別々に存在しているのではなく、
互いの判断や行動に影響を与えている。

一人ひとりの意識だけに責任を戻すことは、
主体と主体のあいだにある構造を
見えなくしてしまうのかもしれない。

善意が続くための条件

人は、いつも強い意志を持って
行動できるわけではない。

迷うこともある。
忘れることもある。
目の前の便利さを選ぶこともある。

だから、善意だけに頼る仕組みは、
長く続かないことがある。

一方で、
望ましい行動を取りやすい環境があれば、
人はそれほど強く意識しなくても動ける。

近くに回収場所がある。
修理できる仕組みがある。
再利用しやすい容器が使われている。
選択に必要な情報が分かりやすく示されている。

そのとき、
意識は仕組みに支えられる。

制度が人を縛るのではなく、
人の迷いや限界を補う。

もし制度や仕組みにそのような役割があるのなら、
問うべきなのは
人の意識が高いか低いかだけではない。

その意識を、
どのような環境が支えているのか。

そこにも目を向ける必要があるのだと思う。

意識と制度のあいだ

ここまで考えてくると、
意識と制度を対立させることにも
少し違和感を覚える。

意識が先なのか。
制度が先なのか。

そのどちらか一方ではないのかもしれない。

人の意識が制度を変える。
制度が人の行動を変える。
変わった行動が習慣となり、
習慣が新しい文化をつくる。
その文化が、さらに制度を変えていく。

もしそうであるなら、
責任は一つの場所に置かれるものではなく、
主体と主体のあいだを動いている。

個人から企業へ。
企業から制度へ。
制度から暮らしへ。
そして、暮らしから再び個人へ。

その循環のどこかが途切れたとき、
責任の空白が生まれるのかもしれない。

まだ、答えは出ていない

一人ひとりの意識は大切である。

けれど、
それだけで環境問題を解決できるとは思えない。

制度がすべてを変えるとも言えない。
企業だけに責任を置くこともできない。

では、責任はどこにあるのだろうか。

選ぶ人にあるのか。
選択肢をつくる人にあるのか。
それを支える制度にあるのか。
選択が繰り返される社会の習慣にあるのか。

おそらく、
そのどこか一つだけではない。

だが、
「みんなに責任がある」と言った瞬間に、
再び誰の責任なのかが
見えなくなる危うさもある。

一人ひとりの意識を大切にしながら、
責任を個人だけに戻さないためには、
何が必要なのだろうか。

そして、
意識と制度のあいだには、
どのような仕組みや関係が必要なのだろうか。

いまはまだ、
その問いを開いたままにしておきたい。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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