総合商社は日本独自のビジネスモデルなのか:第3回 会社が消えても遺伝子は残るのか

総合商社は日本独自のビジネスモデルなのか
第3回 会社が消えても遺伝子は残るのか
前回は、豪州鉄鉱石の開発輸入を通じて、総合商社が異なる企業、機能、時間、リスクを一つの事業へ接続する姿を見ました。では、その能力は、会社のどこに蓄えられているのでしょうか。
1947年11月、旧三菱商事は解散しました。社員たちは多くの会社に分かれます。そして1954年7月、4社の合併によって、三菱商事は総合商社として再出発しました。
組織が解体されても、人が持つ経験や取引先との関係まで、同時に失われるとは限りません。しかし、それらが残っているだけで、元の能力が自然に戻るのでしょうか。今回は、この断絶と再結集から、歴史資本の中身を考えます。
1 何が断たれ、何が受け継がれたのか
旧三菱商事と旧三井物産の解体は、財閥解体政策の一環でした。米国務省が公開する1947年7月の外交文書は、同月3日に両社の解散を指示したことを伝えています。当時の米側は、両社の海外との接点や従来の企業間関係が、貿易を旧来の企業へ集中させ、新たに参入する企業を不利にすることを懸念していました。
商社の接続能力は、取引を可能にする力である一方、取引への参加を限られた企業に偏らせる力にもなり得る。当時の政策判断には、そうした見方がありました。
ここでは、事業組織の解体と、法人としての存続を分けておく必要があります。三菱商事の有価証券報告書の沿革によると、旧会社は1947年11月に解散して清算に入り、その清算が結了したのは1987年11月でした。解散と同時に、法人として全てが消えたわけではありません。
現在の三菱商事につながる法人が設立されたのは、1950年4月です。旧会社が発起人となり、光和実業という別の会社を設立しました。光和実業は、旧会社の特定の債権や債務を引き継いで処理しながら、新たな営業活動を始めています。
旧会社と現在の会社は別法人です。しかし、そのことは、全ての権利や義務が断たれたことを意味しません。法人の同一性、事業組織、人材、取引関係は、分けて確かめる必要があります。
2 同じ名前に集まるまで
光和実業は1952年8月、三菱商事へと社名を変えました。そして1954年7月1日、不二商事、東京貿易、東西交易の3社を吸収合併します。再結集した4社には、解散後に分かれた旧三菱商事の人材や事業が集まっていました。
このため、現在の三菱商事の沿革では、法人の「設立」は1950年、総合商社として再出発した「創立」は1954年とされています。1954年に旧会社がそのまま復活した、と捉えると、この過程が見えなくなります。
三井物産も、別の法人と組織を通じて再結集しました。現在の会社は、有価証券報告書によれば、1947年7月に第一物産として発足しています。三井広報委員会の沿革記事は、第一物産と、当時すでに三井物産を名乗っていた別会社が、1958年8月に合併契約を結び、1959年に大合同へ至ったと説明しています。現在の会社が三井物産へ社名を変えたのは、1959年2月16日です。
同記事には、合同に向けて三井銀行などが調整し、三井系企業の有力12社も合同を条件に支援を表明した経緯が記されています。同じ出自や名前への思いがあっても、複数の会社が一つになるには、経営の条件を整える必要がありました。
再結集は、過去の形をそのまま戻す作業ではありません。分かれた人と事業を、どの会社に、どの条件で集め直すかという、新たな経営判断だったのです。
3 経験を仕事へ結び直す
人材の継承を具体的に調べたのが、大島久幸氏と上原克仁氏による研究です。両氏は、1941年と1961年の三菱商事、三井物産の社員名簿を照合しました。分析対象とした戦前の社員のうち、戦後の名簿にも確認できる人の割合は、両社でほぼ同じでした。人数では、三井物産の方が多かったといいます。
違いが表れたのは、その人たちの配属先です。三菱商事では、戦前と戦後の担当業務の連続性が相対的に高かった。研究は、その背景に、解散後の会社が商品を担当する部署ごとにつくられやすかったことを挙げています。三井物産では、中心となる人物の社内のつながりを軸に会社がつくられる傾向があり、業務の継続性には部署による違いがありました。
研究は、三菱商事の方が、蓄積してきた取引上の基盤を維持し、後進を育てる上で有利だった可能性を示しています。ただし、これだけで両社の戦後の成長を説明できるとはしていません。
この知見を踏まえると、経験を持つ人の人数だけでは、組織の能力を捉えきれないことが分かります。ある商品を知る人が、その商品の取引を再び担う。過去の仕事を共有する人が、同じ職場で新しい担当者を育てる。経験と仕事の結び付きが、継承の具体的な経路になります。
私は、ここに歴史資本を考える手掛かりを見ます。経験が誰かの記憶に残っていることと、それを組織が再び使えることの間には、距離があります。その距離を埋めるのが、配属、仕事の分担、育成といった仕組みです。
4 理念も選び直された
継承されたものには、会社として大切にする行動の基準もあります。三菱商事が現在も掲げる三綱領は、旧三菱商事で1934年に行動指針としてまとめられたものです。同社の沿革記事によると、1954年の再出発に際し、初代社長の高垣勝次郎氏が、三綱領を改めて社是に採用しました。
この「改めて採用した」という過程が重要です。新しい会社が、過去のどの基準を自らの基準にするかを選んでいます。理念の継承にも、意思決定がありました。
企業が公式に語る歴史は、企業が自らをどう理解し、何を継承したいと考えているかを知る資料でもあります。その価値は、実際の行動が常に理念に沿っていたことの証明とは分けて受け止められます。理念の採択と、その理念に基づく行動は、それぞれ確かめるべき事柄です。
一方、事業の基盤には、新たにつくる必要があるものもありました。三菱商事の海外展開に関する沿革記事は、1954年の発足時に海外14カ所へ駐在員を派遣し、米国三菱商事を設立したと記しています。過去の経験を持つ人がいても、拠点を整え、人を配置し、海外で事業を動かす体制は、改めてつくらなければなりませんでした。
5 一社の外にも蓄積される歴史
さらに、歴史を受け継ぐ範囲は、一つの会社の中に収まりません。三菱や三井という企業群の存在にも、目を向ける必要があります。
ただし、三菱グループの各社を、全て三菱商事の子会社として捉えることはできません。三菱グループの公式説明も、各社がそれぞれ独立しながら、歴史や理念を共有しているとしています。資本関係による親会社と子会社のまとまりと、歴史的な企業群とは、区別が必要です。
その上で、共有する名前や記憶を維持する仕組みは存在します。三菱では、社名と商標に関わる委員会が名称やマークの使用と保護を扱い、三菱広報委員会が共同の広報活動や文化事業を担っています。共通の名前や歴史は、こうした日々の活動によっても受け継がれています。
三井でも、社長会である二木会が情報交換や親睦などの場になっています。ただし、三井広報委員会は、二木会をグループ全体の意思決定を行う場とは位置付けていません。会合の存在だけから、各社に命令する共通の本部があると考えることはできません。
私は、こうした企業群のつながりも、歴史が蓄積される場所の一つだと考えます。会社ごとの境界を保ちながら、名前、記憶、接点を共有する。その関係が実際の事業協力へどう結び付くかは、個々の案件で確かめる必要があります。
6 歴史資本はどこに残るのか
ここまで見てきたのは、会社の名前や古さだけでは捉えられない継承です。経験を持つ人が、どの仕事を担うのか。過去の基準のうち、何を新しい会社の基準にするのか。分かれた会社が、何を共有し続けるのか。そこには、継承を可能にする具体的な判断と仕組みがあります。
私は歴史資本を、断絶や失敗を越えて、次の仕事に再び使える形になった判断、関係、制度、記憶の蓄積と捉えています。過去を持つだけで、その全てが資本になるわけではありません。現在の課題に向けて使い直せることが、資本としての価値を生みます。
「企業の遺伝子」という言葉を使うなら、その実体は、人から人への経験の伝達、仕事の組み方、選び直された行動の基準に求められるのではないでしょうか。生物の遺伝のように、自動的に受け継がれるものではありません。
そして、受け継ぐことには、見直す判断も含まれます。過去の取引関係が新しい相手の参加を妨げるなら、関係の開き方を変える必要があります。従来の判断基準が新しい環境に合わなくなれば、基準そのものを改める必要があります。
人の経験は、仕事の配置や育成によって共有されます。企業間の関係は、協力の手順や共通の基準によって繰り返し使えるようになります。歴史資本は、このように関係資本や制度資本と結び付きながら、次の能力を支えていくのだと思います。
7 次回 総合商社はこれからの日本に何をもたらすのか
総合商社を未来に向けて考えるとき、問いたいのは、過去に何を成し遂げたかに加えて、蓄積してきた接続能力を、これからどこで使うかです。
資源や食料を安定して確保すること、特定の供給元への依存を減らすこと、新しい産業の基盤をつくること。こうした課題に、民間企業の判断と国家としての選択は、どう関わるのでしょうか。
次回は、レアアースの供給網づくりを手掛かりに、総合商社がこれからの日本にもたらす価値と、その価値を生かすための条件を考えます。
