広報PRコラム#37 オウンドメディアって何?(2)
こんにちは、荒木洋二です。
前回のコラムでは、「オウンドメディア」のそもそもの意味を確認しました。同時に近年、脚光を浴びるようになった背景や、企業社会での現状を見てきました。今回はオウンドメディアの正体をもっと明らかにするために、日本における企業広報の歴史をひもときます。
◆日本最初の日本語日刊紙『横浜毎日新聞」、1870年創刊
オウンドメディアとは企業が運営する情報伝達媒体です。同じ情報伝達媒体であるマスメディアと対比してみましょう。マスメディアとはテレビ、ラジオ、新聞、雑誌のマス4媒体のことです。現在は最も新しい、第5のマスメディアとして、インターネット(あるいはデジタル)が加えられています。もともとの4媒体の中でテレビは第二次世界大戦後の開局ですので、歴史はそれほど古くありません。マスメディアとして歴史がある、新聞と雑誌の始まりを概観してみましょう。
まず、新聞の創刊はいつだったのでしょうか。
現在、全国紙(中央紙)といわれる新聞は読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞の5紙です。産経新聞以外は明治時代に創刊されています。古い順に示すと次のとおりです。
・毎日新聞 :1872年2月21日(創刊当時名称:東京日日新聞)
・読売新聞 :1874年11月2日
・日本経済新聞:1876年12月2日(同:中外物価新報)
・朝日新聞 :1879年1月25日
日本最初の日本語日刊紙は『横浜毎日新聞』です。1870年に創刊され、京浜地区で配布されていました。当時、新聞は二つに大別されていました。大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)です。大新聞は知識層向けの論説中心、小新聞は庶民向けの娯楽中心の内容でした。大新聞は現在の全国紙や地方紙が採用しているブランケット判と、ほぼ同じ大きさでした。小新聞は日刊ゲンダイ、夕刊フジの夕刊紙や一部業界紙が採用しているタブロイド判の大きさでした。実は読売新聞や朝日新聞は創刊当時、小新聞でした。
次に、日本で最初に創刊された雑誌は何でしょうか。
1867年10月に創刊された月刊誌『西洋雑誌』です。発行元は江戸開物社で、洋学者の柳河春三(しゅんさん)氏が創刊しました。柳河氏が初めて「magazine」を「雑誌」と訳したといわれています。内容は社会事象に加え,欧州の歴史、哲学,宗教から自然科学にわたる翻訳記事などを掲載していたようです。柳河氏が死去したため、1869年廃刊となりました。インターネットで調べる限り、おそらく次に古いのは『東京経済雑誌』で、1879年に田口卯吉氏が創刊しました。『東洋経済新報』は1895年の創刊で、現存する雑誌では日本最古といわれています。
◆1878年創刊、日本最初の広報誌『芳譚雑誌』
オウンドメディアとは前回述べたとおり、企業自らが所有する媒体です。日本企業が初めて広報媒体を発行したのはいつだったのでしょうか。
ここで一冊の書籍を紹介します。
今から10年前の2011年3月30日に初版が発行された『日本の広報・PR100年』(猪狩誠也編著、同友館刊)です。広報の歴史教科書として、筆者は愛読しています。編著者の猪狩誠也氏(故人)は日本を代表する広報学の研究者でした。一般財団法人経済広報センターの設立と運営に関わり、1999年には、公益社団法人日本パブリックリレーションズ協会から日本PR大賞特別賞・教育学術部門賞を受賞しました。日本広報学会の副会長(2003〜11年)も務めていたというから、まさしく日本の広報業界の重鎮だったかたです。
同書によれば、日本最初の広報誌は『芳譚雑誌』です。胃腸薬「宝丹」を製造販売していた守田治兵衛氏が1878年7月1日に創刊したといわれています。インターネットで検索すると、愛善社が出版していたという記述が残っています。守田氏は「売薬商」だったとも書かれています(筆者の祖父は薬の卸商の家系でしたので、縁を感じるというか、感慨深い)。まだ明治時代ですから、もちろん印刷媒体、紙媒体として発行され、400号続きました。胃腸薬を購入した人の体験談や対談、美談が掲載されていたようです。小説など当時の文壇人の活躍の場であったともいわれています。
◆企業広報誌が言論や新しい文化の醸成を牽引
現存する最古の広報誌は丸善(現・丸善CHIホールディングス/大日本印刷傘下)が発行する『學鐙』(がくとう)です。創刊は1897年。1869年に創業された「丸屋商社」が前身で書籍・洋品・薬品などの輸入販売を生業としていました。現在は、丸善CHIホールディングスのグループ会社である丸善出版が発行者です。同社ウェブサイトによれば、「創刊時から広く日本の文化に寄与し、世界の文化受容の窓口となるという一貫した編集姿勢は変わらず、一企業のPR誌を超えて我が国の学界・言論界の中で育って」(原文のママ)きたようです。「初代編集長は作家・文芸評論家として活躍していた内田魯庵、執筆者には坪内逍遙、夏目漱石、井上哲次郎らが名を連ね、明治36年(1903年)『學鐙』と名を改めた以後も日本を代表する学者、文芸家、言論人が筆を執り、学術エッセー誌にとどまらず、社会や時代を映す鏡になっていま」(同)したと記されています。同ウェブサイトに記載のとおり、確かに「一企業のPR誌を超えて」います。一企業が文化を育み、言論界を牽引する立場にあったということです。
ここで現存するメディアの創刊時期を改めて比較しましょう。マスメディアである新聞と雑誌、オウンドメディアである企業広報誌の三つで古い順に並べてみます。
・1872年 『毎日新聞』(全国紙)
・1895年 『東洋経済新報』(雑誌)
・1897年 『學鐙』(企業広報誌)
日本においてオウンドメディアはマスメディアと匹敵する歴史があるということです。丸善『學鐙』に続く、企業広報誌を見ていきましょう。
三越呉服店(現・三越伊勢丹ホールディングス)は1903年に月刊広報誌『時好』(1908年に『みつこしタイムス』に改題)を創刊しました。同誌の前身、『花ごろも』(1899年創刊)には小説家・尾崎紅葉の小説も掲載されていたといいます。三越の広報誌は企業が主導する文化戦略の先鞭でした。その後、「呉服店が次つぎに百貨店に衣替えをするとともに、高島屋、白木屋、そごう、松屋、松坂屋、大丸が競って広報誌を出した」(『日本の広報・PR100年』)という歴史がありました。先述した『芳譚雑誌』も文壇人の活躍の場でした。今でいえば、マスメディアの一角を成す雑誌と同様に、文化を醸成し普及させる役割を担っていたことが分かります。
近年、脚光を浴びている「オウンドメディア」とは、見込み客獲得のために、企業自らが運営する雑誌のような情報サイトだ、と前回私見を述べました。マーケティングのためのサイトであり、「雑誌のまねごとサイト」といえると批判しました。しかし、こうして企業広報誌の歴史を確認すると、本来はそうではなかったことが判明しました。明治時代においては雑誌と伍する、いや文化を広めるという点では今の雑誌と同等以上の役割を担っていたといえるでしょう。
◆問われるのは、オウンドメディアに取り組む姿勢
3年前、元編集者と二人で会談できる機会に恵まれました。すでに第一線からは退いていましたが、歴戦の編集人で東急電鉄の沿線情報誌『SALUS』(サルース)や、米国アメリカン・エキスプレス(以下、アメックス)の会員情報誌(日本国内)の編集に、主導的な立場で携わっていたかたでした。アメックスの会員向け情報誌の話が特に印象深く記憶しています。同社のクレジットカードを所有する人たち向けの情報誌ですから、文章もビジュアルもクオリティ(品質)を重視し、とにかくお金をかけて制作していたそうです。写真には徹底的にこだわったといいます。彼によると、ドキュメンタリーを生業とするカメラマンは1,000人近くいるが発表する場がないため、オリジナルの写真を多数撮りだめしてあったそうです。米国のビジュアル雑誌『ナショナルジオグラフィック』(ナショナルジオグラフィックパートナーズ社)から注文がくるほど、腕のあるカメラマンの写真を旅の記事とともに誌面に掲載していたそうです。『ナショナルジオグラフィック』は1888年に米国で創刊され、現在世界180カ国、180万人の読者を擁し、高級誌に分類されます。とにかく相当こだわりをもって制作していたことが、彼の熱心な話しぶりからも十分過ぎるほど伝わってきました。明治時代、文化を醸成せんとした企業広報誌に関わった先達たち。彼らの歩みや思いと重なるものではないでしょうか。
現在、ブームとなっているオウンドメディア。筆者は、どうしても次のような意識が透けて見える気がしてなりません。
・SEO(検索エンジン最適化)対策としての記事を書く。
・雑誌のようにきれいに着飾り、利用者の関心を喚起する。
・企業名を前面に出さず、商業意欲を隠して利用者と関係を築く。
オウンドメディア制作に関わる全ての人たちが、今こそ自問自答すべきことがあるのではないでしょうか。