中級講座 Ⅰ.理論・基礎知識 広報・PRの歴史 日本における誕生と歴史(2)

こんにちは。荒木洋二です。

今回も「広報・PRの歴史」について解説します。

参考文献は、次のとおりです。

・『日本の広報・PR100年』(猪狩誠也編著、同友館刊)

前回から続き、「日本における誕生と歴史」について解説します。今回の講座で扱うのは、「③社内報と広報誌」です。

③社内報と広報誌

社内報とは、企業の社員向けの広報媒体のことです。広報誌とは、PR誌とも言います。企業自らが発行する広報媒体で、対象は顧客や顧客候補となる人(個人・法人)たちです。

・社内報

まず、社内報の誕生から見ていきましょう。

前回紹介した、南満州鉄道(満鉄)の弘報係誕生より20年前、1903年に日本で初めての社内報は発行されました。

広報とは、パブリック・リレーションズと同意語、同義語です。意訳すると、組織を取り巻く関係者(=利害関係者)と良好な関係を構築することです。皆さんは、初級講座「理論・基礎知識編」で学んでいるので、よく分かるでしょう。社員は、組織を取り巻く重要な利害関係者です。その社員とコミュニケーションするために、社員たちに企業の価値や魅力を伝える媒体、それが社内報という広報媒体です。そもそも社内報とは、企業・組織の広報において重要な役割を担っています。

広報やパブリック・リレーションズという用語自体は、満鉄の時代や戦後に日本で普及していきました。しかし、実際には社内報は、すでに1903年に誕生していました。
それは、鐘淵紡績が発行した『鐘紡の汽笛』です。同社は、1887年、東京綿商社として創業、1893年に鐘淵紡績に改称しました。社内報の名前からも分かるとおり、現在のカネボウ化粧品の前身です。正確に言いますと、カネボウ化粧品とクラシエです。米国のナショナル・キャッシュ・レジスター社のジョン・パターソン氏の影響を受けたと、同誌を創刊した責任者・武藤山治氏が語っていたようです。

米国のPR誕生の歴史では、社内報には触れませんでしたが、米国でも社内報が1900年にはすでに存在していたことが分かります。パブリック・リレーションズやパブリシティとは、切り離したところで、社内報が存在していたわけです。

当時、鐘紡には約3万人もの社員が、全国10カ所の工場で働いていました。当時の紡績業界では、職人の自由がかなり制限されていました。社会的地位も低かったようです。武藤氏はこのような慣習には与せず、業界団体にも加盟しませんでした。武藤氏は、女性を含む職人の立場を重んじ、40件にも上る福利厚生制度を立ち上げたといいます。先進的かつ画期的な取り組みだったことは言うまでもありません。その一環として、社内報を創刊したのです。

その後、1904年10月に帝国生命(現・朝日生命)が『社況月報』という社内報を発刊しました。帝国生命も実は米国からの影響なのです。米国で最初の社内報は、1868年、イートナー生命保険が創刊しました。同社の創刊を機に、米国の生命保険会社で相次いで社内報が創刊されました。このような米国生命保険会社の影響を受けて、帝国生命が社内報を創刊したというわけです。

『社況月報』の内容は、保険代理店向けの内容だったり、情報の内容が非常に限られたりしていたようです。日本でも、帝国生命から始まって、次のとおり、生命保険会社で社内報の創刊が相次ぎました。

・1908年:大同生命
・1915年:第一生命『相互』
・1916年:千代田生命『月報』
・1918年:明治生命『社窓』
・1924年:安田生命『共済』

社内報においては、生命保険会社が先陣を切って、情報発信を進めていったということです。

では、米国からの流れではなく、純粋な国産社内報の始まりはいつだったのでしょうか。1909年に創刊された、新日鉄釜石製鉄所(当時、釜石鉱山田中製鉄所)の『鉱友』が、初めての純粋な国産社内報だったそうです。社員が購入する有料の社内報でした。

このように、徐々に日本の企業社会においても社内報は広がっていきました。1957年には、PR研究会(筆者注:現存していない)が「全国社内報コンクール」を創設しまして、29社が応募しました。大丸百貨店の社内報『てんゆう』が、1位に選ばれたそうです。

当時、週刊誌の『週刊朝日』が「今、社内報がブームになっている」という記事を書くほど、社内報がブームになり、どんどん企業社会に広がっていきました。

日本においても、第二次世界大戦後、資本主義が広まり、高度経済成長期に入り、大量生産大量消費の時代が訪れます。経済社会として成長を遂げていきます。企業で働く社員が多くなれば、当然のこととして、社員に情報を発信する、社員との親睦を深める、社員との良好な関係をつくる、社員との信頼関係を深める、ということの重要性が増していきます。

社内広報媒体を作成し、社員に伝えていく必要性に迫られていったわけですから、当然、発行する企業も増えていきます。現在でも社内報を発行する企業は多数存在しています。大企業、一定の規模以上の企業はほぼ社内報を発行しています。今の時代はインターネットがあまねく広がっていますから、ウェブ社内報を展開している企業も少なくありません。

社内報白書』が詳しいです。毎年、専門の出版社から発行されていますので、関心のある人はぜひ読んでみてください。非常に興味深い内容が満載です。

・広報誌

次に、企業が発行する生活者向け、あるいは主に顧客(個人・法人、候補含む)向け広報媒体について確認していきましょう。

その始まりは、社内報誕生のさらに25年前、1878年でした。胃腸薬「宝丹」を製造販売していた守田治兵衛氏(売薬商)が『芳譚雑誌』を創刊しました。同誌が広報誌の先駆けであったと言われています。

続いて、1897年に丸善が『学鐙』を創刊しました。現存する最古の広報誌です。1899年には三越が『花ごろも』という広報誌を発行しました。1900年に『夏衣』、さらに翌年の1901年には『氷面鏡』と、毎年広報誌を発行しました。1903年になると、三越は月刊の広報誌として『時好』を発行します。同誌は後に『みつこしタイムス』に改題されています。

1920年代になると、各社が相次いで広報誌を創刊します。

・1922年:伊藤萬『イトマン通信』
・1923年:武田薬品『薬報』
       明治製菓『スウィート』

・1924年:資生堂『資生堂月報』(現在発行されている『花椿』の前身)
・1925年:パイロット万年筆『パイロットタイムス』

上述のように1920年代は広報誌の創刊ラッシュが起こりました。1930年代に入ると、化粧品・日用雑貨業界が広報誌に進出し、さまざまな業界の企業が広報誌を発刊するようになりました。

社内報と同様に、第二次世界大戦後、1960年代以降、広報誌(PR誌)が数多く創刊されました。

外資系のエッソ・スタンダード石油が『エナジー』を創刊しました。当時、石油会社に対するアレルギーが日本社会にまん延していました。世論形成、あるいは変革することを目的に、オピニオンリーダー向けに創刊したのです。

・日本アイ・ビー・エム:『無限大』
・日本ユニパック   :『デンジョン』
・トヨタ自動車販売  :『自動車とその世界』

上述のように、1960年代に創刊が相次ぎました。そして「社内報コンクール」と同様に、「PR誌コンクール」が1962年に創設されました。

今回の講座では、社内報と広報誌から日本における広報・PRの歴史を確認することができました。パブリック・リレーションズという概念が日本に導入される以前に、すでにパブリック・リレーションズの一部は実行されていました。社員向け、社員とコミュニケーションするための社内報が存在していました。社会や生活者に向けた、世論形成や変革を目的にした広報誌も存在していました。

どちらも企業自らが発行する重要な広報媒体です。これら広報媒体が日本においてどのように広がってきたのかを見てきました。

次回以降は、次の残り二つを1回ずつに分けて確認していきます。

④報道機関の発達、大企業に普及

⑤中小・中堅企業の視点からの歴史概観

前の記事へ 次の記事へ