広報PRコラム#44 危機のときにこそ「舞台裏」(5)

こんにちは、荒木洋二です。

企業・組織が発信する公式情報は、2種類に大別できます。「表舞台」と「舞台裏」の情報です。「表舞台」の情報とは主に結果のことであり、「舞台裏」とは過程、プロセスのことです。企業・組織は、危機のときにこそ「舞台裏」を伝えるべきです。今まで4回にわたり、舞台裏を伝える重要さを事例を交えながら、解説してきました。今回が最終回です。

◆政官財界、マスコミも揺るがした贈収賄事件「リクルート事件」とは

(1)で述べたとおり、事故や事件など危機が発生した際に、時間の経過とともに進む意思決定を、時系列で明らかにすることができるかどうかが問われます。さらに危機が発生した原因を究明する姿勢や、その過程で明らかになった事実を包み隠さずに公表できるのかも問われます。それだけでは終わりません。再発防止のために何を反省し、どう改善し、どう取り組むのか。ここまで公表することが、企業・組織の社会的責任といえます。

前回までに2社(トヨタ自動車とみずほフィナンシャルグループ)の事例を挙げ、広報PRの視点で読み解いてきました。読み解くことで、危機のときにこそ「舞台裏」を明らかにすることの意義が、二つあることが分かりました。

第1の意義:得られた教訓は、社会全体にとっての財産、社会的利益である
第2の意義:組織存続の原動力、信頼の証しとなり得る

(4)でリクルートが直面した二つの事案を取り上げました。『もっと! 冒険する社内報』(福西七重著、ナナ・コーポレート・コミュニケーション刊)の情報をもとに、第2の意義について探りました。

・大学生の名簿販売疑惑(1980年)
・リクルート事件(1988年)

前回は、「大学生の名簿販売疑惑」でリクルートが示した広報の役割を確認しました。今回は、その約8年後、リクルートの存続を脅かすほどの事件となった、「リクルート事件」を取り上げます。同事件は、政官財界を巻き込んだ大不祥事で、竹下登首相(当時)を退任に追い込むほどでした。

・リクルート事件(1988年)

まず、事件のあらましを概観してみましょう。フリー百科事典『ウィキペディア』が詳しい。

リクルート事件

以下、『ウィキペディア』の情報から主要部分を抜粋し、簡潔に記します。

<概要>

1988年6月18日に発覚した日本の贈収賄事件である。
リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモスの未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす大不祥事となった。当時、第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた。

1984年12月から1985年4月にかけて、江副浩正リクルート社会長が有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート社の子会社であるリクルートコスモス社の未公開株を譲渡した。未公開株の取引相手は、1984年12月20日から31日の期間に39人、1985年2月15日に金融機関26社に、4月25日に37社および1個人に分けられる。

1986年6月に藤波孝生元官房長官ら政財界へのコスモス株譲渡がおこなわれた。
同年10月30日にリクルートコスモス株は店頭公開された。譲渡者の売却益は合計約6億円とされている。

東京地検特捜部は、1989年、政界・文部省・労働省・NTTの4ルートで江副浩正リクルート社元会長(リクルート社創業者)ら贈賄側と藤波孝生元官房長官ら収賄側計12人を起訴、全員の有罪が確定した。

<主な有罪判決>

・藤波孝生元官房長官
 受託収賄罪:懲役3年執行猶予4年・追徴金4,270万円(1999年6月確定)

・高石邦男元文部事務次官
 収賄罪:懲役2年6カ月執行猶予4年(2000年10月確定)

・江副浩正元リクルート会長
 贈賄罪:懲役3年執行猶予5年(2003年3月)

以上

マスコミの報道も当然のことながら過熱しました。

日経テレコンで確認してみましょう。日経テレコンとは、日本経済新聞社が運営する、新聞・雑誌記事のデータベースサービスです。日経各紙と全国紙、NHKに限定して、「リクルート事件」と検索しました。

同事件が発覚した1988年から年間の報道件数を検索しました。江副氏の判決が確定した2003年までの16年間分を調べた結果が次のとおりです。記事の内容は確認していませんが、必ずしもリクルート事件が主題ではない記事も含まれています。1988年だけ事件が発覚した6月18日からの件数です(産経の記事のみ検索対象に加わったのは1992年以降)。

発覚した1988年は半年余りで約1,000件、特捜が起訴した1989年が最も多く1万件を超えました。その後も1992年までは1,000件を優に超えるほどでした。

当時、事件とは無関係だったリクルート社員・関係者は、どんな思いでこの期間を過ごしていたのか。もし、自分自身が彼らの立場だったらと心中を想像すると、胸が締め付けられます。

◆社内報『かもめ』は何をどう伝えたのか

まさにリクルートを激震させた「リクルート事件」。その時、リクルートという組織は、社内報『かもめ』でどういう姿勢を示したのか。『もっと! 冒険する社内報』から抜粋し、当時の「舞台裏」の一端を垣間見てみましょう。

事件が発覚したのが1988年6月18日。その翌月5日深夜、社内報の責任者だった福西氏(同書著者)は江副氏に呼ばれ、同7日付の会長辞任を告げられたといいます。6日、株譲渡益を得ていた、日本経済新聞社の森田康社長(当時)が辞任することを知り、江副氏は決断したそうです。

ここから、福西氏は驚くべき速さで判断し、行動を起こします。独断で社内報の臨時特別号を発行することを決め、江副氏にインタビューを依頼します。リクルートも組織として迅速に動きました。6日、深夜の23時30分から、全国から集まった680人の管理職対象の緊急マネジャー会議が銀座8丁目の同社本社ホールで開催され、江副氏は辞任のあいさつをしました。

福西氏はというと、深夜0時過ぎ、翌朝、江副氏の辞任を全社に報告するためのビデオ社内報の撮影を本社スタジオで行いました。午前1時過ぎから特別号のための江副氏へのインタビューを実施、事件の発端から会長辞任に至る経過や心境をお詫びとともに語ってもらい、夜明けに原稿を完成させました。7月7日、全国紙の朝刊1面は、江副氏辞任の記事で占められました。

同日午前10時から、特別号掲載のための新経営陣の座談会を開きました。

・別冊『リクルートコスモス株式譲渡問題特別号』発行(1988年7月25日)

そして、江副氏のインタビューと取締役座談会が掲載された16ページの特別号が発行されました。表3ページには社員の生の声を掲載したといいます。ただ、真相究明は司直の手に委ねるべきものであるため、説明できないことも少なくなく、社員の反応は二分されました。

この後、9月に入ってから、未公開株譲渡に贈賄容疑も加わり、10月19日、検察による強制捜査が入りました。ここからがリクルートにとって試練の日々が続くことになります。会社がつぶれるという風評や、取引先からのクレーム、契約打ち切りなど、まさしく存続が危うくなる事態に直面しました。

しかし、リクルートは逃げませんでした。誇りと責任感を持って、情報開示と情報共有の姿勢を崩しませんでした。正直に語り、マスコミ報道が誤っていれば、はっきりと誤解を正しました。社内報でその姿勢を示しました。

「舞台裏」の臨場感を味わってもらいたいので、(同書掲載の)同誌企画とそのリード文をそのまま全文紹介します。※原文のママ

・1988年11月号

「リクルートはタフでありたい ーー いまこそ、オトナの感覚と経験をフルに生かすとき」

「いま、私たちは何ができるのか」。入社して1年もたたない新人も含めて、みんなが真剣に考えています。
今回は、本当に多くの人が、誇りを持って真剣に仕事に取り組んでいることを伝えたいと思います。さらに、部次長を中心に、これからのリクルートについて熱く語っていただきました。

・1989年4月号

「新しいリクルートへの助走 ーー どこから来てどこへ」

リクルートコスモス株譲渡問題の渦中でこの十か月間、私たちは、“社会のなかのリクルート”をしっかりと自分のたちの目で見、会社のあり方、仕事の仕方について深く考えてきました。少しずつ動き始めていた“企業改革”もこの事件をきっかけに、いま、ピッチをあげて展開されています。

四月、まったく新しいリクルートへの出発。今回の事件について、これからのリクルートに向けて、一人ひとりが何を感じ、何をしようとしているのか。ここでは、32人の人たちに書いてもらった現在の自分の気持ちと、6人の社外の方々にいただいた貴重なご意見を紹介します。

・1989年5月号

「リクルートのクリエイティビティ ーー 私たちは、私たちにしかできない仕事を、誇りを持って創造しつづけます」

リクルートは創業当時から、新しい事業を興し、社員はそれぞれの立場で創意と工夫を生かし、新しい提案をしつづけてきた。
リクルートでなければできない仕事 ーー それは、過去も現在も未来も、クリエイティビティを最大限に生かすこと。
それがリクルートのよさなのではないか。
それだけに、クリエイティビティがなくなってしまったら、リクルートの存在意義も問われることになるだろう。
しかしいま、私たちは、本当にリクルートでなければできない仕事をしているのか……。
社外の方が、厳しいご意見をくださいました。このように期待をしていただけるということは、ほんとうにありがたいことだと思います。部分的には、すでに改善に入っているテーマもあり、異論のある人もいるかもしれません。今回は、そのへんのタイム・ラグはあえて恐れず、掲載させていただきました。ご意見は本誌あてにお願いいたします。

以上

◆危機のときにこそ「舞台裏」を伝えよう

一読してみて、いかがでしょうか。

「リクルートのクリエイティビティ」を扱った号では、社員以外のメッセージを、厳しい意見もそのままに掲載しました。社外の有識者、顧客、知人、リクルートOBとOG、社員の家族など、100人近い社外のメッセージを集めたといいます。まさにステークホルダー、利害関係者ともしっかり向き合い、その声に真摯に耳を傾けました。

筆者は同書を手に取り、前掲部分を読んで、ぶれない姿勢に触れた時、思わずうなりました。そして、確信とともに思い浮かんだ言葉があります。

「危機のときにこそ『舞台裏』を伝えるべきだ」。

(2)で紹介した書籍『心理的安全性のつくりかた』(著者:石井遼介、日本能率協会マネジメントセンター刊)に、書かれていたことを思い出してください。心理的安全性が感じられるために必要な四つの因子とは、何でしょうか。

①話しやすさ ②助け合い ③挑戦 ④新奇歓迎

リクルートの社内報『かもめ』は、どんな役割を果たしたのか。まさに四つの因子を可視化して、全社員に示した「場」として、社内報は機能していました。社内報で心理的安全性を醸成してきたと言っても過言ではないでしょう。危機のときにこそ、「舞台裏」を明かすことの第2の意義とは何か。それは組織存続の原動力であり、信頼の証しとなり得る、ということが理解できたのではないでしょうか。

社内報、すなわち広報、パブリックリレーションズの真髄は、いついかなる時でも「舞台裏」を明らかにすることなのです。

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