警察広報を描くドラマから、広報の本質を考える:第3回 何を伝え、何を今は伝えないのか

警察広報を描くドラマから、広報の本質を考える
第3回 何を伝え、何を今は伝えないのか
前回、私は警察広報を描くドラマを通して、広報が組織と報道機関のあいだに立つだけではなく、もっと複数の主体のあいだに置かれた仕事として見えてくることを書いた。
もしそうだとすれば、次に問われるのは、何をどう伝えるのかということである。
広報は「伝える仕事」だと言われる。
それ自体は間違っていない。
だが、伝えることを、そのまま「すべてを、すぐに、同じように開くこと」だと考えてしまうと、広報という仕事はたちまち粗くなる。
とりわけ警察のように、人命や安全、捜査、社会的不安に深く関わる現場では、そのことがよく見える。
何を出すのか。
どこまで出すのか。
今、出すのか、まだ出さないのか。
その判断は、単なる情報整理では終わらない。ひとつの情報が、誰にどう届き、何を動かし、何を傷つけ、何を守るのか。そこまで見ながら考えなければならない。
このドラマが興味深いのは、広報を単なる発表窓口としてではなく、そうした判断を抱え込む場所として描いていたことである。
もちろん、だからといって、「言わないこと」が簡単に正当化されるわけではない。今は伝えないことには、隠蔽や自己保身や責任回避が紛れ込みやすい。説明責任から逃れるために情報を閉じることも、現実には起こりうる。
だからこそ、この領域で問われるのは、伝えるか、伝えないかという単純な二択ではない。
何のための判断なのか。
誰のための判断なのか。
そして、その判断の根拠を後で言葉にできるのか。
そこが問われるのである。
開くことは、いつも正しいのか
私たちはしばしば、開示のほうに正しさを感じやすい。
情報は開かれているほうがよい。
隠すより、出すほうがよい。
その感覚自体には理由がある。閉じられた組織、説明しない組織、ごまかす組織への不信を、私たちは何度も経験してきたからである。
だが、それでもなお、何でも開けばよいわけではない。
たとえば、捜査の過程にある情報。
たとえば、被害者や家族の尊厳に関わる情報。
たとえば、社会的不安を不用意に拡大させる情報。
たとえば、今、出すことで安全を損なう可能性のある情報。
そうしたものまで含めて、「すべてをただちに開くこと」が正しいと考えてしまうと、広報は判断の仕事ではなくなる。
広報とは、単に情報を出す役割ではない。
何を、どの順番で、どの範囲まで、どの言葉で渡すのかを考える役割でもある。
開示とは、量の問題だけではない。
順序と範囲とタイミングの問題でもある。
今は伝えないことは、何を守っているのか
一方で、「今は言わない」という判断にも、つねに危うさがある。
その判断は、本当に誰かを守るためのものなのか。
それとも、組織の立場を守るためだけのものなのか。
ここは、つねに疑われる場所である。
そして、実際に疑われるべき場所でもある。
だから、今は伝えないことに意味があるとしても、それは無条件ではない。
なぜ今は出さないのか。
何を守るためなのか。
いつになれば出せるのか。
その判断を、後で説明できるのか。
そこまで含めてはじめて、「今は言わない」という判断は、ただの隠蔽とは別のものになりうる。
逆に言えば、そこまで考えられていない非開示は、広報の判断というより、単なる自己防衛に近づいてしまう。
この意味で、広報はとても不安定な場所にいる。
出しても批判される。
出さなくても批判される。
そのあいだで、なお判断しなければならない。
しかも、その判断の多くは、あとからしか評価されない。だからこそ広報は、発信の仕事である前に、判断を引き受ける仕事でもあるのだと思う。
広報は、何によって判断しているのか
では、その判断は何によって支えられるのか。
私はここに、広報という仕事の難しさがあると思う。
情報の有無そのものではない。
その情報が、誰にどのような影響を及ぼすのかを見ながら、開示の幅とタイミングを決めなければならないところにある。
今、出せば、何が起きるのか。
今、出さなければ、何が起きるのか。
どこまで出せば、説明責任を果たしたことになるのか。
どこから先は、別の損傷を生むのか。
こうした問いに、あらかじめ決まった正解があるわけではない。
だから広報の判断は、いつも状況のなかで行われる。しかも、その状況は、内部の事情だけで決まるわけではない。報道機関の動き、市民の不安、事件や事故の性質、組織に寄せられる視線。それらすべてのあいだで判断しなければならない。
広報とは、言葉の整え手である前に、その言葉が何を動かすのかを見ている仕事でもある。
何を言うか。
どう言うか。
いつ言うか。
そして、今は言わないのか。
その一つ一つに、判断がある。
「報道対応」の奥にあるもの
こうして見ていくと、「報道対応」という言葉が、広報の仕事をどれほど狭く見せてしまうかが分かる。
報道対応という言葉からは、記者への説明、会見での受け答え、取材対応といった場面がまず思い浮かぶ。もちろん、それらは広報の大事な仕事である。
だが、その背後で行われている判断の重さまでは、この言葉ではなかなか見えてこない。
実際には、広報は「何をどう言うか」だけでなく、「何をどこまで開くか」「それは誰のための判断か」を考え続けている。
そうだとすれば、広報とは、情報を外へ送り出す部署というより、開示と非開示のあいだにある判断を引き受ける部署として見直す必要があるのかもしれない。
これは警察広報という特殊な現場に限った話ではない。程度の差はあっても、企業広報もまた、説明責任、信頼、安全、当事者への配慮、社会的影響のあいだで、何をどう伝えるのかを判断している。
ただ、その重さが、しばしば「メディア対応」という言葉のなかで見えにくくなっているのではないか。
今回のドラマを見て、私が強く感じたのはそのことだった。
広報とは、伝える仕事である。
だがそれは、「ただ伝える仕事」ではない。
何を伝え、何を今は伝えないのか。
その判断を引き受けることもまた、広報の仕事なのである。
もしそうだとしたら、最後にもう一つ問いが残る。
広報は、単に言葉を出し入れしているのだろうか。
それとも、ときに公共空間そのものの流れを調整しているのだろうか。
次は、そのことを考えてみたい。
