#31 「責任の境界線」 第11回 責任は、応答の中で見えてくるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
ーなぜ私は「社会設計ノート」を書いているのかー
責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計
第11回 責任は、応答の中で見えてくるのか
第10回で、私は「責任は、応答の中で見えてくるのか」と問うた。
声を受け取る。
状況を確かめる。
判断する。
理由を伝える。
その結果を見届ける。
必要なら、もう一度問い直す。
応答とは、一度の返事ではなく、そうした往復の中にあるのではないか。
そう考えてきた。
だが、ここで一つ、気になることが残る。
応答は、声が届くことを前提にしている。
では、その声は本当に等しく届いているのだろうか。
声を上げられる人と、上げられない人
私たちは、さまざまな方法で意思を伝えることができる。
問い合わせる。
意見を書く。
商品を選ばない。
署名する。
行政に要望を出す。
SNSで発信する。
声を届ける手段は、以前より増えた。
しかし、誰もが同じように声を上げられるわけではない。
時間がない人もいる。
方法を知らない人もいる。
立場によって言いにくい人もいる。
何か違和感を持ちながら、それをうまく言葉にできない人もいる。
声が届いていないことと、
意見がないことは同じではない。
沈黙しているから、納得している。
何も言わないから、問題はない。
そう判断してしまうと、
声にならなかったものは最初から存在しなかったことになる。
大きな声ほど、大きな問題なのか
声には、大きさもある。
多くの人が同じことを言えば、目につきやすい。
強い言葉で訴えられれば、耳にも入りやすい。
数字として示されれば、判断材料にもなりやすい。
組織にとって、こうした声は扱いやすい。
何件あったのか。
何%が不満なのか。
どのくらいの人が賛成しているのか。
数えることができるからだ。
だが、声の大きさと、問題の大きさは同じなのだろうか。
一人しか訴えていない問題が、
小さな問題だとは限らない。
まだ誰も言葉にしていない変化が、
重要ではないとも限らない。
逆に、大きな声だけを聞き続ければ、
判断そのものが声の強さに引っぱられることもある。
何を聞くのか。
誰の声を聞くのか。
そこにもまた、判断がある。
「聞く」という行為も、設計されている
企業や行政は、声を聞くための仕組みを持っている。
相談窓口。
アンケート。
説明会。
意見募集。
顧客調査。
それらは重要な入口である。
だが、入口のつくり方によって、
入ってくる声も変わる。
質問したことにしか答えられないアンケートもある。
問い合わせ先を知っている人だけが使える窓口もある。
決められた時間に参加できる人だけが出席できる場もある。
つまり、声を聞く仕組みは、
声を集めるだけではない。
何を声として認識するのかを決めてもいる。
そう考えると、
応答は声が届いたあとから始まるのではなく、
誰の声を受け取れる状態をつくるのか、
その手前からすでに始まっているのかもしれない。
声を持たない未来
ここで、第5回の問いがまた戻ってくる。
未来は、誰の責任として残るのか。
未来の世代は、
現在の意思決定の場に参加できない。
投票することもできない。
商品を選ぶこともできない。
企業に問い合わせることもできない。
まだ存在していないのだから、当然である。
だが、現在の判断の影響は、
その未来へ届く可能性がある。
では、声を持たない未来を
現在の判断にどう含めればよいのだろうか。
未来の声を聞くことはできない。
だからといって、
現在に存在しないものを
勝手に代弁してよいわけでもない。
「未来のために」と言いながら、
現在の価値観を未来に押しつけることもあり得る。
声を持たない主体を考慮することと、
その主体の声を決めつけること。
その境界もまた、簡単ではない。
自然もまた、声を上げない
環境問題には、
人間とは異なるもう一つの難しさもある。
川は、苦情を言わない。
土壌は、署名をしない。
海は、問い合わせ窓口に連絡しない。
もちろん、自然そのものが
人と同じ意味で「主体」であると言いたいわけではない。
ただ、変化は起きている。
水質の変化。
生態系の変化。
気温の変化。
資源の減少。
それらは、人間の言葉ではなく、
データや観察によって初めて見える。
だとすれば、
声とは必ずしも言葉だけではないのかもしれない。
数字。
変化。
兆候。
現場の違和感。
私たちがそれを「声」と呼ぶかどうかは別として、
判断の前に受け取るべきものは、
言葉になった意見だけではない。
そんなふうにも思えてくる。
誰かが代わりに語るということ
声を持たない主体がいるとき、
誰かがその存在を意思決定の場へ持ち込むことがある。
専門家。
地域住民。
NPO。
行政。
企業の担当者。
それぞれが、自分の知識や経験から
「ここを見る必要がある」と伝える。
これは必要なことだと思う。
しかし同時に、
代わりに語ることには慎重さも必要になる。
誰かのために語っているつもりが、
自分の価値観を語っているだけかもしれない。
専門知識があるからといって、
すべてが分かるわけでもない。
だからおそらく必要なのは、
「私がこの主体の声を代表している」と言い切ることではない。
ここにまだ聞こえていないものがある。
ここに判断から抜け落ちているものがある。
そう示し続けることなのではないか。
判断の履歴に、何を残すのか
第10回では、
判断の理由を記録することが、未来への応答になり得るのではないかと考えた。
ここでも、記録の意味が少し変わって見えてくる。
何を聞いたのか。
どんな意見があったのか。
何を判断材料にしたのか。
それだけではなく、
何を聞くことができなかったのか。
誰がその場にいなかったのか。
何がまだ分からなかったのか。
そこまで残すことができるだろうか。
判断の履歴というと、
決めたことと、その理由を残すもののように思える。
だが本当は、
判断の限界を残すことも
同じくらい重要なのかもしれない。
「あの時点では、ここまでしか分からなかった」
「この主体の声は聞けなかった」
「この影響については判断できなかった」
そうした空白が残っていれば、
後から別の主体が問い直すことができる。
完全な判断だったと残すのではなく、
不完全さも含めて残す。
それも、責任の一つの形なのだろうか。
聞こえないものを、どう扱うのか
これまで、この連載では
責任の境界線を何度も動かしてきた。
家庭から自治体へ。
個人から企業へ。
現在から未来へ。
制度から関係へ。
そして第10回では、
その境界をつなぐものとして応答を考えた。
だが、応答するためには、
まず何かを受け取らなければならない。
そのとき、
聞こえてくる声だけを受け取ればよいのだろうか。
聞こえないもの。
言葉にならないもの。
まだ存在しないもの。
数字の中にしか現れないもの。
そうしたものを判断の外側に置けば、
そこにまた新しい責任の空白が生まれる。
一方で、
聞こえないものを勝手に語れば、
別の危うさも生まれる。
このあいだを、
どう考えればよいのだろう。
まだ、答えは出ていない
誰の声を聞くのか。
これは単なる情報収集の問題ではない。
誰を主体として認めるのか。
何を判断材料として扱うのか。
どこまでを自分たちの責任の範囲に含めるのか。
そのすべてに関わっている。
声の大きな人だけを聞かない。
声のない人を忘れない。
未来を勝手に代弁しない。
分からないことを、分かったことにしない。
言葉にすると簡単だが、
実際の判断では、きっと簡単ではない。
だからこそ、
「誰の声を聞いたか」だけではなく、
誰の声を聞けなかったのか。
その問いも残しておく必要があるのかもしれない。
責任とは、
聞こえた声に応答することだけなのだろうか。
それとも、
まだ聞こえていないものがあると知りながら判断することも、
責任の中に含まれるのだろうか。
いまはまだ、
その問いを開いたままにしておきたい。
