#27 「責任の境界線」第9回 選択肢をつくる側は、何を引き受けるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計

第9回 選択肢をつくる側は、何を引き受けるのかせてよいのか

第8回で、私は「一人ひとりの意識で、終わらせてよいのか」と問うた。

私たちは、自分で選んでいるように見える。

何を買うのか。
何を使うのか。
いつ手放すのか。
どのように捨てるのか。

けれど、その選択の前には、すでに誰かがつくった選択肢がある。

商品に使われる素材。
包装の方法。
価格。
修理のしやすさ。
使い終えたあとの行き先。

私たちは、何もないところから選んでいるわけではない。

だとすれば、責任は選ぶ瞬間から始まるのではなく、選択肢がつくられる段階から、すでに始まっているのではないか。

選択は、売り場に並ぶ前から始まっている

商品が売り場に並ぶまでには、多くの判断が重ねられている。

どの素材を使うのか。
どのくらいの量をつくるのか。
どのような容器に入れるのか。
どの価格で販売するのか。
使い終えたあとまで考えるのか。

消費者が商品を手に取るとき、その判断の多くは、すでに終わっている。

包装を減らしたいと思っても、包装されていない商品がなければ選べない。

長く使いたいと思っても、修理できる構造になっていなければ使い続けられない。

回収に出したいと思っても、その入口が示されていなければ、捨てる以外の行き先は見つけにくい。

選択する側の意識だけでは、越えられない線がある。

「選べる」ことは、同じ条件を意味しない

選択肢が複数あれば、自由に選べるように見える。

だが、すべての選択肢が同じ条件で置かれているわけではない。

環境への負荷が少ない商品は、価格が高いことがある。

修理して使い続けるには、時間や手間がかかることがある。

再利用や回収の仕組みがあっても、身近な場所では利用できないことがある。

情報が多すぎて、何を基準に選べばよいのか分からないこともある。

選択肢が存在することと、実際に選べることは、同じではない。

そこには、価格、時間、距離、情報といった条件がある。

そして、その条件もまた、誰かの判断や制度によってつくられている。

つくる側も、自由ではない

では、選択肢をつくる企業が、すべての責任を負えばよいのだろうか。

それほど単純でもない。

企業もまた、さまざまな条件の中で判断している。

原材料の価格。
製造設備。
物流の仕組み。
市場での競争。
取引先との関係。
消費者が求める価格や利便性。
法律や業界の基準。

一つの企業だけで変えられることには限界がある。

環境への負荷を減らそうとすれば、価格が上がることもある。
包装を変えれば、保存や輸送に別の負荷が生じることもある。
長く使える商品をつくっても、買い替えを前提とした市場では選ばれにくいこともある。

選択肢をつくる側もまた、制度や市場という、さらに大きな選択肢の中に置かれている。

責任は、力のある場所に集まるのか

それでも、すべての主体が同じ条件にあるわけではない。

個人よりも、多くの商品をつくる企業の方が、素材や包装を変える力を持っていることがある。

一つの企業よりも、制度をつくる側の方が、市場全体の条件を変えられることがある。

多くの情報を持つ側と、限られた情報の中で選ぶ側とでは、見えている範囲も異なる。

変える力。
知っている範囲。
与える影響。

それらが大きいほど、引き受ける責任も大きくなるのだろうか。

そう考えることはできる。

だが、力を持つ側だけに責任を置けば、選ぶ側の責任がなくなるわけでもない。

ここでもまた、責任を一つの主体に置くことの難しさが現れる。

選択肢の中に、未来は含まれているか

第5回で、私は「未来は、誰の責任として残るのか」と問うた。

その問いは、選択肢を考えるときにも戻ってくる。

いま売られている商品には、使う瞬間だけでなく、その先の時間も含まれている。

どのくらい長く使えるのか。
壊れたときに直せるのか。
使い終えたあとに再び資源になるのか。
処理できないものとして残るのか。

選択肢は、現在の便利さだけを示しているのではない。

その中には、未来への影響も折り畳まれている。

けれど、その時間は売り場では見えにくい。

価格や機能は表示されても、使い終えたあとの責任まで、同じように見える形で示されることは多くない。

未来が見えないままでは、選ぶ側も、その未来を引き受けることが難しい。

選ぶ側とつくる側のあいだ

ここまで考えると、責任は選ぶ側とつくる側のどちらか一方にあるのではなく、そのあいだにあるようにも見えてくる。

企業が選択肢をつくる。
生活者がその中から選ぶ。
選ばれた結果が、次の商品やサービスをつくる判断につながる。

企業の判断が生活者の行動を変え、生活者の行動が企業の判断を変える。

そこには、一方向ではない関係がある。

だが、その関係が本当に働くためには、選ぶ側の声がつくる側へ届き、つくる側の判断や事情も選ぶ側に見える必要があるのかもしれない。

何を選んだのかだけでなく、なぜその選択肢がつくられたのか。

何をつくったのかだけでなく、それが使われたあと、何が起きたのか。

その応答が途切れたところに、再び責任の空白が生まれる。

「正しく選ぶ」より前に

環境問題を考えるとき、私たちは「正しく選びましょう」と言われる。

だが、何が正しいのかは、いつも明確ではない。

紙なのか。
プラスチックなのか。
使い捨てなのか。
繰り返し使うのか。
新品なのか。
修理して使うのか。

一つの側面だけを見れば正しくても、別の側面から見れば、異なる負荷が生まれることがある。

だから、選ぶ人に正解を求めるだけでは足りない。

選択肢がどのようにつくられ、その違いがどのように示され、選んだあとの結果がどこへつながるのか。

その全体が見えなければ、個人の選択だけに責任を置くことは難しい。

まだ、答えは出ていない

一人ひとりの選択は、社会を変える力を持っている。

選択肢をつくる企業も、大きな影響を持っている。

制度は、その両者が動く条件をつくっている。

では、責任はどこに置けばよいのだろうか。

選ぶ側なのか。
つくる側なのか。
条件を整える側なのか。

あるいは、どこかに置くのではなく、それぞれのあいだを行き来できるようにする必要があるのか。

そして、選択肢をつくる側は、どこまで先の結果を引き受ければよいのだろうか。

売るところまでなのか。
使われるところまでなのか。
手放されたあとまでなのか。
未来に残るところまでなのか。

いまはまだ、その境界線を引くことができない。

ただ、私たちが何かを選ぶより前に、すでに多くの判断が重ねられている。

その見えない判断を抜きにして、選ぶ人の責任だけを語ることはできないのではないか。

その問いを、もう少し開いたまま考えてみたい。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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