#33 「責任の境界線」 第12回 責任の境界線は、引き直せるのか

このノートの考え方については、こちらにまとめています。
なぜ私は「社会設計ノート」を書いているのか

責任の境界線 ― 環境問題から始める社会設計

第12回 責任の境界線は、引き直せるのか

この連載は、一つの小さな違和感から始まった。

朝の「みんなのHomeRoom」で、環境問題について話を聞いていたときのことだった。

3R。
分別。
リサイクル。
ごみを減らすこと。

どれも、私たちが長く「よいこと」として受け止めてきたものだ。

けれど、その場で交わされた一つの問いから、私は少し立ち止まることになった。

よいことをしているはずなのに、なぜ矛盾が起きるのか。

そこから、この連載が始まった。

正しいことの、その先を見る

第1回で感じたのは、正しいとされている行動の先にも、別の現実があるということだった。

分別する。
回収する。
リサイクルする。

一つひとつの行動だけを見れば、間違ってはいない。

けれど、その先には処理があり、物流があり、制度があり、ときには国境を越える移動もある。

第2回では、3Rの向こう側を考えた。

Reduce。
Reuse。
Recycle。

私たちは、その言葉を知っていても、その順番や意味を十分に考えないまま使っていることがある。

問題は、正しいか間違っているかだけではなかった。

どこまでを見て判断しているのか。

そのことの方が、少しずつ気になり始めた。

境界線が見えてきた

第3回では、「責任はどこで止まるのか」と考えた。

家庭で分別し、ごみ置き場へ出す。

そこから先は自治体が回収する。
処理施設が引き受ける。
場合によっては、さらに別の地域や国へ移動する。

私たちは、どこかで「ここから先は自分の責任ではない」と感じている。

それは決して不自然なことではない。

社会は、役割を分けることで動いているからだ。

家庭がすべてを引き受けることはできない。
企業がすべてを引き受けることもできない。
自治体も国も同じである。

責任には境界線が必要だ。

けれど、その境界線を「責任の終わり」と考えたとき、見えなくなるものがある。

そこに、この連載の中心にある問いが立ち上がった。

主体と主体の「あいだ」

第4回では、主体について考えた。

家庭。
自治体。
企業。
国。

問題が起きると、私たちは責任を負う主体を探そうとする。

しかし、現実には一つの主体だけで結果が生まれているわけではない。

複数の主体が重なり合い、互いの判断や行動に影響を与えている。

そして、その重なりを見ているうちに、

主体と主体のあいだ

というものが気になり始めた。

家庭と自治体のあいだ。
企業と消費者のあいだ。
自治体と事業者のあいだ。

責任が受け渡される場所であると同時に、責任が見えなくなる場所でもある。

誰も無責任であるつもりはない。

それでも、その「あいだ」に空白が生まれることがある。

境界線には、時間もある

第5回では、その空白を時間へ広げた。

未来は、誰の責任として残るのか。

私たちは、今日、今期、年度、任期といった時間の単位で判断している。

それは社会を動かすために必要な区切りである。

だが、環境への影響は、その時間の中で終わるとは限らない。

今日捨てたものが、
数年後、数十年後に別の負荷として現れるかもしれない。

現在の判断の影響を、まだここにいない人たちが引き受けることもある。

そう考えると、責任の境界線は場所だけではなく、時間にも引かれている。

制度は、境界線をつくる

第6回では、制度について考えた。

制度は、責任を明確にする。

誰が何をするのか。
どこまでを対象にするのか。
どのように処理するのか。

制度があるから、社会は動く。

一方で制度は、責任の範囲も定める。

その線の外側にあるものは、制度から見えにくくなることがある。

出たごみをどう処理するのか。

それだけではなく、

そもそも、ごみが出る仕組みをどう変えるのか。

そんな問いも、ここから見えてきた。

制度は、最後を処理するためだけのものなのか。

それとも、最初の選択を変えることもできるのか。

制度の外側ではなく、制度との「あいだ」

第7回では、制度だけで未来を支えられるのかと考えた。

人の関係。
習慣。
暮らしの中の感覚。
文化。

制度では直接扱いにくいものが、人の行動を静かに支えていることがある。

だが、ここでも「制度か、文化か」という二者択一ではなかった。

制度と関係。
制度と習慣。
制度と文化。

その「あいだ」に何があるのか。

この連載では、何度も「あいだ」に戻ってきた。

個人だけに戻さない

第8回では、「一人ひとりの意識」で終わらせてよいのかと問うた。

環境を大切にしよう。
ごみを減らそう。
正しく分別しよう。

一人ひとりの意識は大切だ。

けれど、人は何もないところから自由に選んでいるわけではない。

価格。
時間。
情報。
商品のつくられ方。
売り場。
回収の仕組み。

さまざまな条件の中で選んでいる。

個人の意識だけに責任を戻してしまえば、その条件をつくっている構造が見えなくなる。

選ぶ前から、判断は始まっている

第9回では、その選択肢をつくる側へ視点を移した。

素材。
包装。
価格。
修理のしやすさ。
使い終えたあとの行き先。

私たちが商品を選ぶ前に、すでに多くの判断がなされている。

だが、企業もまた自由ではない。

市場。
制度。
技術。
取引関係。
費用。

さまざまな条件の中で判断している。

だから、責任を個人から企業へ移せば解決するわけでもなかった。

選ぶ側と、つくる側。

そのあいだを、責任がどう行き来するのか。

問いは再び、関係へ戻った。

応答という往復

第10回では、「応答」という言葉を考えた。

声を聞く。
判断する。
理由を伝える。
結果を見る。
必要なら、もう一度問い直す。

応答とは、一度の返事ではなく、こうした往復なのではないか。

責任もまた、一つの主体から別の主体へ渡して終わるものではなく、その往復の中でつながっていくのかもしれない。

そして、判断の理由やその結果を残しておけば、まだここにいない誰かが、後から問い直すこともできる。

記録は、過去を保存するためだけではなく、現在の判断を未来へ開いておくためのものにもなりうる。

そんな問いも生まれた。

聞こえないものを残す

第11回では、その応答の前にある「声」を考えた。

声を上げられる人。
上げられない人。
言葉にできない人。
まだ存在していない未来の世代。

そして、人の言葉では語らない自然の変化。

声が聞こえないからといって、存在していないわけではない。

同時に、聞こえない声を勝手に代弁することにも危うさがある。

だから、判断の履歴には、

何を聞いたのかだけではなく、
何を聞けなかったのか。

何が分かったのかだけではなく、
何がまだ分からなかったのか。

その限界も残す必要があるのではないか。

そこまで問いは広がった。

では、責任の境界線はどこにあるのか

12回を通して考えてきても、私はまだ、その線を引くことができない。

家庭までなのか。
企業までなのか。
自治体までなのか。
国までなのか。
未来までなのか。

おそらく、そのどこかに一本の正しい線があるわけではないのだと思う。

むしろ、問題ごとに、
主体ごとに、
時間ごとに、
境界線は異なる。

そして、社会が変われば、その線も変わる。

だとすれば大切なのは、最初から完璧な境界線を引くことではないのかもしれない。

いま、どこに線を引いているのか。

その線の向こう側に、何があるのか。

誰がそこにいるのか。

何が聞こえていないのか。

そして、その線は今も適切なのか。

問い直すこと。

境界線は、責任を逃れるための線ではない

責任の境界線は必要である。

すべての人が、すべてのことに責任を負うことはできない。

「みんなに責任がある」と言えば、結局、誰の責任なのか分からなくなる。

だから、役割を決める。
主体を定める。
制度をつくる。

境界線を引く。

ただ、その線を固定してしまわない。

境界線の向こう側を見ない理由にしない。

「ここから先は私の責任ではない」と完全に切り離すのではなく、

ここから先は誰が引き受けているのだろう。

そう問い続ける。

責任の境界線とは、責任を終わらせるための線ではなく、次の主体へ問いを渡すための線として考えることもできるのではないか。

小さな違和感に戻る

この連載を始めたとき、私は環境問題の答えを探そうとしていたわけではなかった。

朝の短い時間の中で生まれた、小さな違和感が気になっただけだった。

よいことをしているはずなのに、なぜ矛盾が起きるのか。

12回書いても、その問いに一つの答えは出ていない。

むしろ、問いは増えた。

けれど、それでよかったのだと思う。

一つの違和感を、正しいか間違っているかで閉じなかったことで、

主体が見えた。
関係が見えた。
制度が見えた。
時間が見えた。
選択が見えた。
応答が見えた。

そして、それらの「あいだ」にある空白も見え始めた。

最後に

環境問題は、あまりにも大きい。

一人で引き受けることはできない。

だからといって、
誰かに任せきることもできない。

おそらく私たちにできるのは、

自分の責任の範囲を知ること。

その境界線の向こう側にいる主体を想像すること。

自分の判断がどこまで届くのかを考えること。

そして、必要なら、その境界線を引き直すこと。

それくらいなのかもしれない。

けれど、社会はもしかすると、
そうした小さな引き直しの積み重ねによって変わっていくのではないか。

責任の境界線は、どこにあるのか。

12回考えてきた最後に、
私は少し問いを変えてみたい。

いま引かれているその境界線を、私たちは問い直し続けることができるだろうか。

この連載の答えは、まだない。

だから、この問いを残して、
いったん筆を置く。

#00 なぜ、この記録を始めるのか

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